元気な子犬の声に続き、ダニエルの笑い声が庭に咲いている花々を揺らすように辺りに響く。
以前よりも少しだけ体が大きくなったレックスは元来賢い犬種だけあって段々と悪戯をすることはなくなってきているが、ダニエルが傍にいるときは別だ。幼い主人の周りをぐるぐると回りながら、時折跳ねては皺一つなかったシャツに易々と泥のついた足跡を残した。
洗濯婦(ランドリー・メイド)たちがこの光景を見たらさぞかし驚くだろうが、優秀な彼女たちなら新品と見紛うまでに綺麗にしてくれるに違いない。
一通りレックスと走り回ったダニエルは満足したのか、エミリアのところに戻ってきた。走った所為なのか頬は薔薇色に染まり、額には汗で髪が張り付いている。
優しく髪を梳いてやるとダニエルは甘えるようにエミリアのドレスの裾を握りしめた。

「たくさん走ったわね。疲れたでしょう?」

ダニエルは笑顔で首を振った。子供というのは体力に限界がないのだろうか。エミリアにはここから一番近くの木まで走ることすら困難そうであった。
幼い主人と共にレックスがまた走り出すと、下に降りて餌を探していた鳥たちが驚いて一斉に空へと羽ばたいていった。その羽音もすぐにレックスの鳴き声に掻き消されていく。
その光景を微笑ましく思う一方で、一時間前のマグナスの言葉がエミリアの心に影を落としていた。
時間をくれと言ったマグナスの頭にどんな考えがあったのかなどエミリアには想像がつかない。けれども口調からして、とても大切なことなのだとは分かった。
彼の表情を曇らせているのは一体何なのか。そしてそれはエミリアが知るべきものなのか、或いは深入りしてはいけないものなのか。
マグナスのことを思い、いつもより心臓が速く打った。そしてほんの少しだけ胸の真ん中がちくりと痛む。ここ最近は毎日のように同じ感情が繰り返し訪れていた。

「エミー!見て!」

駆け寄ってきたダニエルの右手には可愛らしい花が握られていた。途端にエミリアの顔に笑みが広がる。

「ありがとう、とても綺麗ね」

目線を合わせる為に膝を折ると、ダニエルがエミリアの髪にその花を挿してくれた。小さな白い花弁が、僅かな風に吹かれ視界の端でゆらゆらと揺れる。
ダニエルがこうして散歩の度に花をくれることは今や習慣になっていた。大きさも色もその時によって様々だが、小さな手がエミリアの為だけに手折った花は他のどんな宝石よりも価値がある。
今までに貰ったものは全て本の間に挟み、押し花にしている。今日もまた気難しい文章が並ぶその一ページを、柔らかな色で包んでくれるのだろう。
そうして味気のないページが淡く彩られていく毎に、エミリアとダニエルが重ねた思い出も増えていく。紙を捲るとその日の気分や出来事が日記をつけるよりも鮮明に脳裏に浮かぶのだ。
本が花で埋め尽くされる頃にはどんな未来が待っているのかと思うと、エミリアは胸の高鳴りを抑えることは出来なかった。
ただ、少なくともグランヴェル邸には英国に誇れる庭園と数えきれないほどの蔵書がある為、この先ダニエルは花に、エミリアは花を挟む本に困ることはなさそうだ。

突然それまで大人しくしていたレックスが吠え始めた。そちらの方に視線を移すと丁度邸の方からナタリーが歩いてくるのが見えた。その後ろには厩番の少年が付いてきている。
――約束の時間がきたのだ。そのことに気付いたエミリアの体は少しだけ強張った。急に現実へと思考が戻されたような感覚さえする。
彼らが傍までくるとレックスが尻尾を振って2人を歓迎するが、ナタリーはまだレックスに触れることに躊躇いがあるらしく僅かに微笑んだだけに留まった。

「ダニエル様、裁縫師が参りましたので今日の散歩はここまでにして頂きます。レックスは他の者に預けましょう。奥様は……」
「ええ、分かっているわ。ダニエル、昼食はまた一緒にとりましょうね。それからお花、本当にありがとう」

ダニエルは素直に頷き、ナタリーの差し出した手を握った。レックスは大人しくその場に座り、ナタリーの後ろに控えていた厩番の少年の指示を静かに待っているようだった。
ナタリーに手を引かれ歩きながらもこちらが気になって仕方がないと後ろを振り返るダニエルに手を振り、エミリアは彼らとは別の方向へ歩き出した。
散歩をしている間はダニエルの一挙一動に気を取られ別のことを考える余裕などなかったが、いざ散歩が終わってみると期待とも不安ともつかない感情がエミリアの心の中でせめぎ合っていた。
指定された噴水のところへ行くには少し歩かなくてはいけなかった。エミリアは一歩一歩、慎重に足を運びながら複雑な胸の内を少しでも落ちつけようとしたが、それも上手くいかなかった。
一度絡まった思考の糸は簡単に解けてくれそうにはないどころか、寧ろ更に複雑になるばかりだ。
気付けば距離があると思った噴水の場所はもう目と鼻の先だ。マグナスはこちらに背を向けて立っている為、エミリアにはまだ気付いていない。
一度部屋に戻って着替えたのか、服は変わっている。だがまだいつものマグナスには程遠かった。常に自信に満ち溢れた表情は心なしか沈んでいるし、どこか落ちつかなげに指先が不規則なリズムを刻んでいる。

声をかけていいものか一瞬戸惑ったのも事実だ。だがマグナスの姿を見た瞬間に、幾重にも絡まった糸が嘘のように解れていったのも事実だった。
エミリアは一歩を踏み出した。彼女の足取りにはもう躊躇いなどなかった。

「マグナス」

振り返ったマグナスの目がエミリアを捉えると同時に、強張った表情が少しだけ柔らかくなったのは気のせいだろうか。

「お待たせしてしまいましたか?」
「いや、構わない」

マグナスは一歩エミリアに近づき、ゆっくりと両手を取った。今までダニエルと体を動かしていたエミリアと違い、マグナスの指先は冷たかった。
自然と2人の目が合う。マグナスの意思の籠ったグレーの瞳、エミリアの気遣うような薄茶色の瞳。それぞれに思ったことは別だったかもしれないが、エミリアは今までで一番マグナスを近くに感じていた。

「君に、見て欲しいものがあるんだ」

外された視線に一抹の寂しさを思いながらもエミリアは聞き返した。

「見て欲しいもの、ですか?」
「ああ。私の…そうだな、一番の愚かさと傲慢さと、そして後悔の固まりでできた過去だ」

自嘲気にそういうマグナスの口元は固く結ばれている。
その表情から背負ってきた過去の重さが窺える。きっとマグナスと同様、エミリアにも相当な覚悟が必要な話なのだろうと想像がついた。
エミリアは強く握り過ぎて白くなったマグナスの手に触れた。まるで熱いものに触れた時のようにマグナスの指先が反射的に跳ねるが、エミリアは更にその上にもう片方の手を重ね、真っ直ぐに灰色の瞳を見つめた。
――関係ないのだ。例えマグナスが何を打ち明けたとして、エミリアは彼の妻だ。妻は夫の言葉を信じ、静かに現実を受け入れるだけ。
マグナスと結婚をした時、確かに神に誓った。あの時よりもずっと、深い心でマグナスを信じることができる。エミリアはそう感じていた。だから何も恐れることはない。

「ええ、ご一緒します、マグナス」

エミリアの決意の籠った目を暫く驚いたような表情で見ていたマグナスは、やがて何かを堪えるかのように首を振り震える右手でエミリアの頬に触れた。

「君はどうして――……」

その先はどうやっても言葉にはならなかった。ただ胸が苦しくて仕方がない。エミリアの言葉はマグナスには温かすぎた。
今から彼女と向かおうとしている場所は謂わば、マグナスにとって己の罪とも言える過去だ。だからこそ愚かさと傲慢さと後悔という言葉で表現した。それが一番合っているような気がしたから。
それなのにエミリアの瞳には嫌悪も好奇も見られなかった。真っ直ぐに見据えるその目は、マグナスの過去から一瞬たりとも目を逸らすまいと語っているかのようだ。
胸の奥から込み上げてくる感情を表現することは出来ない。全てを知った時、彼女はマグナスを軽蔑するだろうか。その瞬間を思うと嘗てないほどの恐怖が体中を駆け巡る。
だが一方でエミリアならばと思う自分もいる。エミリアならばマグナスの弱さですら受け止めてくれるのではないかと。
込み上げてくる感情を表現するにはマグナスは相手に伝える言葉を知らなかった。感情のままにエミリアを抱きしめ、腕の中の温もりに安らぎを見出すのが精一杯であった。

「君でよかった」

マグナスの掠れた声はエミリアに届かなくともよかった。ただマグナスはあの日の自分の選択を、エミリアに出会ったあの退屈な夜を心から神に感謝していた。
他の誰もエミリアの代わりは果たせない。それこそがマグナスの心の全てだった。






*






マグナスの足が一体どこに向かっているか分かった時、エミリアはおもわずその歩みを止めていた。2人が目指す先にはここにきてすぐミセス・タリスが舘には一握りの使用人とマグナスしか入れないということを聞いていたあの舘があった。
その存在を隠すかのように周り樹木が覆ったそこは、魅力的ながらどことなくもの悲しさを漂わせている。年月と共に黒ずんだ木の扉と四方に伸びた蔦の葉はまるで侵入者を拒むかのようだ。

「どうかしたか?」

エミリアがついてきていないことに気付いたマグナスが後ろを振り返りそう尋ねる。エミリアは慌てて首を振り、止めていた足をもう一度動かした。
――ここがマグナスの言う過去と何か関係があるのだろうか。疑問ばかりが頭の中を巡るが、それを言葉にはしなかった。


「さあ、入りなさい」

マグナスに促され扉の向こうへと足を踏み入れる。開け放たれた窓から薄らと光が差し込み、部屋にある家具たちを照らしていた。
どれもこれも素朴で落ちついた色と形で統一され、華美さはないがどこか優しさで溢れているような気がする。燭台、机、本棚、一人掛け用のソファ、エミリアは一つずつ目で追いながらこの部屋の主の人柄を思った。
選んだ家具から推測するに性格は温厚だが決して几帳面ではないのだろう、本棚に並ぶ本の高さはばらばらであるし一部は横になって置いてある。

飽きることなく部屋全体を見渡していたがふと、窓際に立て掛けられているものに気がついた。確か絵を描くときに使う画架(イーゼル)というものだ。
近づいて見てみると、キャンバスに人物が描かれているのが分かった。周りを丈夫な布で包んでいるのは、それだけこの絵が大切だからなのだろう。
肖像画には美しい女性が描かれていた。眩いばかりの金色の髪、透きとおった白い肌、華奢な肩、夏の新緑のような瞳。神話の中の女神を絵にしたらこんな感じだろうか。身につけている装飾品ですら彼女の美しさには到底叶いはしない。
多くの肖像画とは違い、彼女の唇は緩く弧を描いていた。大抵貴族の肖像と言えば、自分の権力や気品などを強く主張する為に無表情である場合が多いのだ。
だが柔らかな色を使ったこの絵からは女性とこの絵を描いた人物との絆が窺える。そこから伝わるのは心を震わせるような優しい感情だけだった。

エミリアは暫し言葉もなく絵に見入った。マグナスが静かに近くまで寄り、そっとエミリアの肩を抱いた。

「美しい方ですね。一体どなたなのでしょう」
「……サリアナだ」

低く告げられた名前にエミリアは弾かれたようにマグナスを見た。
サリアナ――マグナスの前の妻の名前だ。彼女の肖像をこの目で見たのは初めてのことだった。噂には聞いていたがこれほどの美しさを持った人だとは知らなかった。
だとすると、この絵を描いたのはマグナスなのだろうか。サリアナの表情はただの絵描きに向けるにはあまりにもリラックスしている。これはきっと愛する人を見る目なのだ。
胸に燻る嫉妬心を振り払うかのように、エミリアは極めて明るく切り出した。

「ではこれはあなたがお描きに?とても素敵な絵だわ」
「いや、私ではない」
「え?」

エミリアの疑問に、マグナスは眉を下げた。まるで泣きたいのを必死で堪えているかのような顔で。

「彼女を真に愛し、同じように彼女から愛された者が描いた。私ではない」
「マグナス……」

掛ける言葉が見つからなかった。エミリアの耳から入った情報はまるで夢の中にいるときのようにふわふわと思考の海を漂っている。
マグナスはそっとエミリアから離れると懐から何かを取り出し、エミリアの掌に乗せた。僅かな重みを持ったそれは過去に一度だけ目にしたことがあるロケットリングだった。

「これは……」
「そう、私がいつか君とダニエルから取り上げたものだ。それと同じものがここにもある」

マグナスが指したのは肖像画だった。よく見てみると確かにサリアナの左手には同じものが描かれている。

「蓋の裏側にはこう記してある<永遠の愛の証に>と。贈ったのは勿論私ではない。私の――私の、弟だ」

エミリアの心臓はその時確かに止まったに違いない。それほどマグナスの告白は衝撃的なものだった。
結婚する前どころかチェザースハウスにいた時ですらマグナスに兄弟がいたなどと聞いたことはない。グランヴェル家の人間であれば社交界で必ず人々の口上に上るだろうが、それもなかった。

「レオナルド……弟は、私とは似ても似つかなかった。画家になりたいと、イートン校を出てすぐに家を飛び出した。父は家名に傷をつける気かと反対し、レオナルドを愛していた母は泣きついたが弟はきかなかった」

己の胸の奥底に長年閉まってきた感情を吐き出すかのように、マグナスは更に続けた。

「私は、応援してやりたかった。せめて弟には思うように生きて欲しかった。母が亡くなり、父もいよいよという年に私は結婚した。相手は同じ伯爵家の令嬢だった。美しい女性であったと同時に聡明でもあった。私と同じように結婚を割り切っていたのだからね」

エミリアは静かにマグナスの話を聞いていた。マグナスの口元は時折戦慄き、噛み締めるように絞り出された言葉が重さを増していく。
そこに垣間見る悲しみと後悔は確かにマグナスの過去を責めているようにも思えた。

「だが弟が邸に戻ってきたことで全てが変わってしまった。サリアナの心は冷たい夫よりも優しさと温もりをくれる弟の方へ移っていった。弟は同じく彼女を想いながらも良心がそれを許さなかった。何度も言われたよ、彼女を大切にしろと。だが、私はそれをしなかったのだ」

グレーの瞳が静かにエミリアに注がれた。

「エミリア、私はサリアナを愛することは出来なかった。例え弟に懇願されたとしても、心はそう簡単には変えられない。サリアナも同じだった。だからこそますますレオナルドに惹かれたのだろう。これがその証拠だ。私はサリアナの笑った顔すら知らなかった」

マグナスはもう一度肖像画を見た。こちらに向かって笑うサリアナの視線の先にはいつだってレオナルドがいたのだろう。想う相手が傍にいるときこそ、人は心からの笑顔を出せる。
それはエミリアに出会って初めて知ったこと。あの嵐の日から何年も経って漸く、あの日のレオナルドの気持ちが痛いほどに分かるのだ。
もうどうやっても隠すことなどできはしない。レオナルドのことをエミリアに打ち明けると決めた時、マグナスが頑なに守ってきた氷の殻も粉々に砕け散った。

――愛しているのだ。身を焦がす程にエミリアを想っている。
だからこそ知ってほしかった。マグナスの過去を、そして最大の秘密を。

「エミリア――」

それを告げるのは今しかなかった。







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