「…ある公爵主催の仮面舞踏会でのことだ」

一旦呼吸を置き、マグナスは昔話を始めた。これから告げる真実に欠かせないあの夜のことをどうしてもエミリアに打ち明けてしまいたかった。
全てを話すことにもはや躊躇いなどないとは言い切れなかった。心のどこかでまだいいのかと問いかけている曖昧な自分もいる。
けれどもエミリアに隠し事はしたくなかった。例えそれを打ち明けることが利己的だと言われようとも。

「主催者が変わり者で、招待客が誰なのか殆ど分からなかった。もしかしたら王族が来ていたのかもしれない。何しろ顔は隠れているし、招待客の大半は自分だと分からないように変装までしていたのだからね」

マグナスは目を閉じ、思いを数年前に馳せた。ドアを開けた瞬間の煌びやかな雰囲気やその部屋の匂いが今でも五感を刺激する。
男女の密やかな会話、仮面に隠された素顔への羨望、一時の快楽への背徳感。
誰もかもがその夜だけは理性よりも本能を曝け出した。昼間とは違った己を演じ、仮面越しに合う視線に酔いしれた。
いつもと違った人々の輪に溶け込み、まるで道化のような会話を繰り返す。普段なら顔を顰めるであろう下衆な噂話ですら、その場を彩る花になる。寧ろ真面目くさった話を始めたものがいたのなら、全員で舞踏会から締め出していただろう。
身分を明かさず好き勝手に人々の間を飛び交う話題のたった一つの共通点は普段の「自分」では決してしない話と言うことだけ。
男は会場にいる女を値踏みし、女は身なりのよさそうな男に片っ端から意味深な視線を送っていた。それがあの一夜の始まりだ。

「ある時、近くにいた男がサリアナのことを話題に上げた。清純で可憐だとか、夫であるラザフォード卿はイギリス一の幸運を手に入れたとか。まあ、その後は聞くに堪えない言葉の羅列だったが。とにかくその男は私がその件のラザフォード卿だとは知らずに、懸命にサリアナを褒めたのだ」

安い酒に酔い、赤ら顔の男が次々と並べる美辞麗句にマグナスの思考は少しずつ冴えていった。周りにいた人間もその男に同調し、熱のこもった相槌を打つ。そんな幻想を抱いている男たちがマグナスには滑稽にしか映らなかった。
同意を求められてマグナスはなんと答えただろうか。――くだらない、と一刀両断したに違いない。
男たちの不審げな視線の中で吐き捨てるようにマグナスはこう言ったのだ。私はベッドの中での彼女を知っているが、あれは売春婦も裸足で逃げ出すような女だ。清純?可憐?彼女との一夜を知ったのなら二度とその単語は紡げないだろう、と。
酔った勢いで片づけるにはあまりに酷い言葉だ。現にマグナスはまったく酔っていなかったのだから今思い出すだけでもあの日の自分に吐き気がする。
幾ら顔が隠れている舞踏会だからと言って、自分が放ったそれが煙のように消えてなくなるわけではないと分かっていた。一体どんな噂となって社交界を巡るのか思いつかなかったわけでもなかった。寧ろ尾ひれをつけながら矢のように駆けていくだろうと冷静に考えてさえもいた。
しかしそれ以上に強い負の感情が衝動となってその言葉を言わせていた。

「どうしてか仮面をつけるとまるで王にでもなったかのように気が大きくなる。私は嗤ってやりたかったのだ。サリアナに清純な夢を持った男たちに、清楚な仮面をつけて夫の弟と密事を重ねる妻に。全て私のくだらない自尊心だが、同時に私にはそれしかなかった。そんなプライドの為に私は彼女を侮辱する言葉を言ったのだ。遠目に彼女の背中が震えているのを見て私は大いに満足した。当然だとさえ思った。だが――」

段々と言葉に詰まるマグナスをエミリアは胸が千切れるような想いで見つめた。マグナスの目は肖像画の中のサリアナを追い、彼の手はエミリアの肩を強く抱いている。
どんな言葉ですら聞き逃すまいと、エミリアはマグナスから目を逸らさなかった。彼の瞳が後悔や悲しみに濡れる度、背負ってきた秘密が少しずつ明かされる度、彼の心が悲鳴を上げているのを感じていた。
きっと想像もつかない程の痛みを抱えてきたのだろう。その痛みにマグナスがいつまで耐えられるのかエミリアには分からなかった。

気遣わしげに伸ばされたエミリアの指先をマグナスはもう片方の手でしっかりと握った。重なり合う温もりにマグナスは大きく息を吐きだした。

「私にとって予想外だったのは、その場にレオナルドがいたことだ。彼も招待を受けた一人だったらしい」
「では…マグナスの言ったことを」
「ああ、聞いていたようだ。家に戻るや否やレオナルドは私に今にも掴みかからん勢いで言った。何故なんだと。何故あんな酷いことを言ったんだと。私はなんと返したと思う?笑ったのだよ。そしてレオを傲慢だと責めた。いかにも間違っているのはレオだと言わんばかりにね」

今思えば好きなように生きてきた弟に対して嫉妬もあったのだろう。決められた生活、結婚、生涯。当たり前だと思う一方でマグナスは心のどこかで不満を覚えていた。
自分のしたいように生きているレオナルドを見ているとまるで自分が死人のようにも思えたのだ。輝くような生命力に羨望を覚え、それはやがて自分でも気付かない間に憎しみと一体となる。
あの日まではそれが表面には現れなかったのだ。マグナスは確かにレオナルドを愛していたし、自由に生きて欲しいという願いも本物だった。
だが心の奥底に潜んだ妬みは長い年月を重ねゆっくりと確実に頭を出してきたのだ。その重さに理性が負けたのがあの日の夜だった。

"僕が望んでいるのはたった一つだ。台無しにしたのはあなたの方だ!!マグナス、僕はあなたを生涯許さない!!"
そう言ったレオナルドに顔を向けることなくマグナスは自分の行いを正当化しようとした。乱暴に閉められたドアにすら何の感情も動かなかった。
もしあの時、マグナスに少しでも冷静に自分自身を見つめ直すことができたのならばレオナルドの言葉の意味を深く考える理性があったのなら、未来は変わっていたのだろう。
狂った運命の歯車をマグナスは自らの手で早めてしまったのだ。

「それからすぐにレオナルドは家を出て行った。何年も消息すら分からなかったが、トラファルガーの海戦で亡くなったと国からの手紙で知ったよ。英国にとっては歴史的な勝利だったあの戦いが、私から生涯弟に許しを乞う機会を奪ってしまった」

短くエミリアが悲鳴を呑み込んだのが分かった。マグナスが握るその手が微かに震えているのはレオナルドの結末に衝撃を受けたからだろうか。
戦地での経験など殆どなかったに違いないのに、レオナルドは前線を希望したらしい。初めてそれを聞いた時マグナスは自分の耳を疑わずにはいられなかった。
朗らかに笑いながら色彩の柔らかい絵を描いていた弟と血が降り注ぐような戦争がどうしても結びつかなかったからだ。
今となってはレオナルドが何を思って戦地に赴いたのかは分からない。戦争で活躍し、英雄になりたかったのかもしれない。同じように海戦で亡くなった提督がその偉大さ故に愛人を持っていても周囲は黙認していたのは誰でも知っていることだ。
もし提督のように功績を上げられたのならば王から爵位を与えられる事も有り得た。貴族の次男として生まれたレオナルドには当然爵位はなかった為、それが叶えばサリアナを妻にすることも充分可能なのだ。
――結局真実は海に沈んだレオナルドの亡骸のみが知っている。

残されたサリアナにとってそれからの日々はまさに地獄だったに違いない。
レオナルドが亡くなったことを知り、サリアナは少しずつ壊れていった。彼の優しさを支えにしてきた彼女にとって現実はあまりに耐え難かったのだ。一日中ぼんやりとしていたかと思えば、突然狂ったようにレオの名前を叫び泣いた。
あの頃は邸の中が闇の中に放り込まれたかのように暗く、淀んでいた。そんな邸からマグナスの足も自然と遠のき、日ごと友人たちの家を渡り歩いては連日のパーティに明けくれた。酒が全てを忘れさせてくれると信じて浴びるように飲んだこともある。
何もかもから目を逸らし続けていたかったのだ。己の罪を罪と認めたくなかったというのもある。
サリアナが身籠っていると知ったのはリチャードの邸に滞在している時だった。手紙に書かれた事実にマグナスは一気に現実へと引き戻された。
後継者ができたことが素直に喜べなかったのは家に帰る馬車の中で何度もレオナルドの顔が頭を掠めたからだ。重い脚を引きずり何週間かぶりに妻の前に立った時、サリアナは唇に美しい弧を描きながらこう言ったのだ。

「"レオナルド様との子です。決してあなたが父親ではないわ"、とね」

今も一字一句間違えずに記憶している言葉をそのまま口にすると、今度こそエミリアは堪え切れなくなった涙を零した。
マグナスは緩やかに首を振り、優しすぎる妻の頬に流れた涙を親指で拭った。緊張のあまり冷え切った指先に染みるような温度が、マグナスの重く閉ざされた心を緩やかに開いていく。
確かに衝撃的な言葉だったが納得もしていた。冷え切った夫婦生活の中で寝室が別に作られていれば互いのベッドを温める機会などそうそうない。
サリアナの言葉を証明する術は何もない為実際はマグナスの子であることも有り得たが、マグナスはその可能性を信じようとはしなかった。
だが例え弟の子であろうともグランヴェル家の血が入っていることだけは間違いない。それにもし子供が男であったのなら目の前の問題が全て片付くと冷酷なことも考えていたのだ。
サリアナを糾弾する代わりにマグナスは生まれた子供を自分の子として育てることを認めた。勿論他の誰にも口外しない約束で。

ただそれだけのことであったのなら、どれほどよかったか。マグナスには何も分かっていなかったのだ。

「それからダニエルが生まれ、すぐにサリアナが亡くなっても私は未だに自分が正しいと信じて疑わなかった。確かに大きな秘密を抱えているというリスクはあるが、秘密は私とサリアナしか知らない。彼女が亡き今そんな心配など小さな問題だと思っていた」

だがそれが大きな間違いだと気付くのはすぐのことだった。
生まれた赤子の面倒は乳母が全て見ていたいた為、マグナスはそれまでとなんら変わりのない生活を送っていた。昼も夜もない生活に赤子だったダニエルの入りこむ隙はどこにもなかった。
だがある時ミセス・タリスにしつこくせがまれ、生まれたとき以来初めて息子の顔を見に邸に帰った。
乳母に抱かれまだ座らない首を動かし、マグナスの方を向いたダニエルを見て漸く目の前に立ちはだかる大きすぎる罪に気付いた。

「ダニエルの瞳は私のものよりとは少し違うだろう?まさしくレオナルドが同じ色の瞳だったのだ。いや、肖像画に描かれている祖父の瞳も青みがかった灰色だったから驚くことは何もない。だが……私にはダニエルの瞳がレオのそれと同じにしか見えなかったのだ」

幼い頃から見続けてきた瞳が再びマグナスの顔を捉えた時、心臓が凍るような思いをした。レオナルドと同じ瞳で見つめられるとまるでレオナルドに大声で責められているような気持ちになった。
そうして決まってあの日のレオナルドの言葉を思い出し、悪夢にうなされた。あの時は何も感じなかった一言がマグナスを縛り付けている。

「私は…情けないが怯えているのだ。ダニエルと顔を合わせればそれだけ自分の犯した罪を付きつけられる。あの日、あの時と思い出したらキリがないくらいね」

エミリアはもう涙を止めることが出来なかった。どうして今までマグナスがダニエルと距離をとっていたのかずっと疑問だったが、その答えがこんなに悲しいものだとは思いもしなかった。
父親として愛情を持てなかったのではなかった。冷たい態度、そっけない言葉の裏にはダニエルを亡き弟に重ねた辛さがあったのだ。
マグナスが全て悪いわけではないと言いたかった。マグナスとサリアナ、レオナルドの小さなすれ違いが重なった結果が大きくなりすぎてしまったのだ。
けれどもその言葉が今のマグナスにとって慰めにはならないこともエミリアは分かっていた。
マグナスに必要なのは罪の軽減ではなく、それを背負って歩いて行けるだけの支えだ。だったら――だったら自分がその支えになりたい。そう強く思った。
そしてその衝動のままマグナスの首に腕を回し、自分の想いを抱擁で伝えるかのように強く抱きついた。
一瞬だけ体を強張らせたが、マグナスもエミリアの想いに応えるかのようにそれ以上の力で華奢な体を抱きしめた。もっと彼女の鼓動が感じられるまで、もっと自分が安心できるまで。そうやって理由を付けながら抱きしめ続けた。
エミリアの涙がシャツを濡らし素肌にまで届くが、それも愛おしい温もりだった。

「やり直せます、きっと。初めから全て。ダニエルだってあなたからの愛をきっと待ってます」

その言葉が、波紋のようにマグナスの心臓に響いていく。長年連れ添った痛みが、後悔が、今初めて意味があるように思えた。

暫く無言で思いの丈を抱擁で交わした二人だったが、やがてどちらからともなく唇を重ねた。
何度か強引に奪ったことはあったが、口付けがこれほど熱いものだとは知らなかった。同時に今までに感じたことのない安堵が全身を包む。
言葉に出来ない気持ちが後から溢れて止まらない。――ああ、これなのだとマグナスは思った。
これが人を愛する喜びなのだと。

「傍にいてくれ、エミリア。私には君が必要だ」

互いの吐息が一つになったとき、マグナスは自然とその言葉を口にしていた。





*





それから再び邸に戻る為にレオナルドの館を出たのは太陽が幾分か西に傾いた頃だった。
マグナスは部屋に残された絵を一つ一つ見て回ると、それぞれの思い出を懐かしそうに語った。これは筆遣いが粗いからまだ初期の頃の作品だとか、大きな風景画を前にした時はこの時は食事も碌にせずに大変だったとか。
その表情は手のかかる弟を確かに慈しんでいたもので、マグナスにとってレオナルドがどれほど大切な家族だったのかを窺い知ることができる。
領地や爵位を巡って兄弟同士でも争いが絶えないにも関わらず、マグナスたちは仲のいい兄弟だったのだろう。兄は弟を守り、弟は兄を尊敬してきた。
お互い間違えたのはたった一つのことだけだというのに、それが兄弟の絆を永遠に解けない糸のように絡めてしまった。レオナルドは亡くなってしまった為、マグナスが長い生涯をかけてそれを解いていかなくてはいけないのだ。

「よし、これにしよう」

そう言ってマグナスが取り出したのは、他の作品に比べると一回り小さいものだった。
描かれているのはエミリアもよく見知ったグランヴェル家自慢の庭を薄く柔らかい色で切り取っている。季節的には春なのだろうか、黄色やピンクの花が新緑に優しく映えていた。

「優しい絵ですね」
「ああ、レオナルドらしい絵だ。これをダニエルの部屋に飾るのはどうだろうか」

思わぬ提案にエミリアはマグナスの顔を凝視した。

「さっき思い出したんだよ。あの頃、弟が言っていたことを」
「なんと仰ってたんですか?」
「子供部屋が殺風景過ぎると。可笑しいだろう?弟は子供の頃あの部屋が好きではなかったらしいんだ。親しみがまったくないとね。私はそんなこと感じたこともなかったが、この絵を見たらあの面白味のない部屋に彩りを添えてもいいんじゃないかと思ったんだ」

エミリアはもう一度マグナスの手元にある絵を見た。確かにこの絵はダニエルの子供部屋を明るくしているだろう。子供部屋にしては些か雰囲気が重すぎるとエミリアも前々から思っていたのだ。
だが、マグナスはそれでいいのだろうか。この絵を見る度にレオナルドの事を思い出して自責の念に駆られてしまうのではないか。
そんなエミリアの不安を感じたのか、マグナスは穏やかな笑みを顔に浮かべ心配ないと首を振った。

「私がレオの絵を手元に置いておきたいのだ。昨日までは見るのも拒んでいたのに、変だと思うか?自分でも不思議だがね、君に全てを打ち明けたら急にそう思えるようになったんだよ」

マグナスの言葉に偽りや強がりは一つもなかった。再びレオナルドの絵を手にしたとき恐怖や後悔は少しも感じず、ただ懐かしさだけが心に甦ったのだ。
正直に過去と向き合い、そして歩いていくと決めた。この絵がその一歩になることをマグナスは期待していた。

「それに誰かに取り入るときはまず贈り物からと言うだろう?」

冗談ぽくそう言えば途端にエミリアの顔から不安は消え、あの誰もが心を許してしまう笑みが広がった。そしてマグナスの考えを名案だと褒めてもくれた。

そうして二人は小さな絵を携え、邸に戻ることにした。そろそろダニエルの服の採寸も終わった頃だろう、エミリアを待ってじれったくしている様子が目に浮かんだ。
窓から入ってくる光はドアを開けた時よりも色を濃くして部屋を照らしている。窓辺には数刻前と変わらずサリアナの肖像が穏やかな笑みを浮かべながらこちらを見ていた。あの絵を描いている時にレオナルドとサリアナの間にどんな会話が交わされたのか知ることは出来ないが、この狭い空間に溢れていたのは愛に他ならなかったのだろう。
エミリアとドアを出る寸前、マグナスはもう一度部屋を見回した。
ここを寂しさだけを残した部屋にはしたくない。掃除のものを入れ、何もかもを元に戻そう。レオナルドが一人で築いてきたものを今度はマグナスがエミリアやダニエルと再生してもいいのではないか。
心の中でそっと亡き弟に問いかければ、あの穏やかな声でその答えが聞けるような気がした。





二人が邸のポーチに足を踏み入れた時、待ち構えていたかのように勢いよく玄関のドアが開いたかと思うとダニエルが飛び出してきてエミリアに抱きついた。
小さな子供とはいえ結構な衝撃がありおもわずよろけてしまうが、それよりも早くマグナスがエミリアの体を支えたので固い床に倒れずに済んだ。

「エミーおかえり!」

そんなことなど知らないダニエルは顔一杯に嬉しさを滲ませている。こんな可愛らしい姿を見て頬が緩まない人間がいたら会ってみたいものだとエミリアは思った。

「お帰りなさいませ、旦那様。奥様、申し訳ありません。お止めしたのですがダニエル様ったら寂しかったようで……」

後から小走りで追い付いてきたナタリーは幾分息を切らせながらそう言った。「それに随分足が速くて、追いつきませんでしたわ」と続いた言葉にはマグナスも笑わずにはいられなかった。
エミリアがくるまで無表情だった息子が今はくるくると表情を変え、懸命に思いを伝えようとしている。ダニエルと上手くいかず、ヒステリックに叫んでいたナタリーも見違えるようにダニエルとも親しく付き合っている。
この邸全体がエミリアをきっかけにいい方向に向かっているのは間違いないことだ。そしてマグナスも彼女のお陰で沢山のことに気付かされ、救われた。

マグナスは一歩前へ踏み出し、ダニエルの目の高さに合わせて膝をついた。幼い息子が見る世界はマグナスに忘れていた何かを思い出させる。

「ダニエル」

名前を呼べば少しだけ怯えたような瞳がマグナスをとらえた。そうだ、こうしてダニエルの名前を呼ぶ時はいつも何かしら失敗を責める時だった。レオナルドに対する負い目からとは言え、己のしてきた仕打ちにマグナスは胸を痛めていた。
薄い青みがかったグレーの瞳が、レオナルドと同じ瞳が、怯えの向こうでマグナスへの愛を乞うているようにも見えた。
マグナスはそっと腕を広げた。その動作に何かを悟ったエミリアが驚愕しながらも優しくダニエルの背中を押す。

「ダニエル、こちらへ来てくれるか」

エミリアに促されダニエルが戸惑いながら少しずつ前に出る。ゆっくりだったそれがやがてマグナスの目の前に来た時、マグナスは手を伸ばし初めて息子を抱きしめた。
どれほどの力を込めていいのか分からず、随分ぎこちない抱擁ではあったが小さな手がマグナスの服を掴んだ時、喉の奥から競り上がってくる感情を留めることは出来なかった。
どうしてこの温もりを知らずにこれたのだろうか。弟の陰に怯え、小さく脆い命をどうして無視することができたのだろうか。
腕の中に収まってしまう温もりをマグナスは心から愛しく思えた。そんな父親の変化を敏感に感じたのか、ダニエルは先ほどの戸惑いを捨てマグナスの首に精一杯の力でしがみついた。

「あの、旦那様は一体どうなさったんでしょう…今までダニエル様を抱きしめたことなんて一度も…」

ナタリーの呟きにエミリアは自然と頬に流れていた涙を拭いながら答えた。

「氷がね、解けたのよ。長い間マグナスの心を覆っていた厚い氷がね」


川の向こうに沈んでいく太陽が全てを見ていた。
水面に煌めく粒を落とし、兄弟の痛みを、夫婦の新しい愛を、長い間親子の間にあった壁を赤く燃えるような光で照らしながら。







Back Top Naxt

 
inserted by FC2 system