――何故なんだ!マグナス!

暗闇の中で誰かが悲痛な声で叫んでいた。
いや、誰かと表現するのはおかしいかもしれない。顔は見えなくとも、マグナスはその声の主をよく知っていたからだ。
もう何年も聞いてはいないが、柔らかく人を安心させるような声はしっかりと記憶の底に根付いている。
マグナスが自覚すると同時に視界が開け、蝋燭の薄らぼんやりとした明りが辺りを照らし始めた。見慣れた調度品、埋め込み式の暖炉、壁にかかった肖像画がここがマグナスの自室であることを物語っていた。しかしそれだけではない。
これはあの日の再現だ、とマグナスは思った。これは夢であって現実ではないと。
30年近くも生きていれば誰しも人生に何らかのしこりを持っていてもおかしくはないだろう。それらは時として教訓に、そして時として戒めとして己の中に常にあるのだ。
マグナスにとって数年前のこの日こそ、忘れようにも忘れられない後悔と懺悔の日々として記憶に残っている。瞳を閉じるだけで簡単にあの日に帰れるほど、頭の中には鮮明にその時の光景が焼き付いていた。
あの日、外は嵐だった。横殴りの雨、轟々と恐ろしげな音を立てて風が吹き木々を揺らしている。森の奥からは鳥や獣の鳴き声が絶え間なく響き、いかにも小説家が好んで描写しそうな恐怖を掻き立てる晩だった。
友人宛てに書いていた手紙に封をし、マグナスはホットワインを片手に窓の傍まで寄った。晴れた日には英国でも随一と名高い庭が一望できる自室だ。今は生憎の闇と雨の所為で景色は全く見えなかったがそれでも構わなかった。
今夜の不快な出来事で、荒れ狂った心を鎮める為に静かな時間が必要だったのだ。
誰にも邪魔されない自分だけの時間をマグナスは殊のほか大事にしていた。家族は持っていても彼らにその時間を割かれるのは心外だった。形として結婚はしているものの、マグナスは夫婦の関係はチェスのゲームに似ていると感じていた。
相手の数手先まで読み、いかに自分に有益に事を運べるかが重要な鍵なのだ。妻になったばかりのサリアナもマグナスとそう変わらない考えを持っているらしい。
彼らは人前に出る時だけ夫婦の仮面を被り、まるで舞台役者のように己の配役を全うする。二人は完璧だった。誰もがマグナスとサリアナの夫婦関係が円満だと思っている。実際は同じ邸に住んでいても、顔を合わせるのは精々三日に一度だというのに。
マグナスが瞑想に耽っていると突然大きな音がし、重厚な扉の向こうから青年が入ってきた。こんな夜更けにマグナスの部屋に勝手に入ることが許されている人物は数少ない。彼はその一人ではあるが、いつもとは違う血走った目をした青年にマグナスの眉間の皺も自然と深まる。
着ている服は皺が寄っているし、どこを歩いてきたのか髪は濡れて乱れていた。当然、紳士とはお世辞にも言えない格好だ。
マグナスが何か言うか言わないか迷っている間に、青年はあっという間に距離を詰めマグナスにこう言った。何故なんだ、と。彼の息は完全に上がっていて、とても冷静に話し合える状況じゃないと判断したマグナスは何と返したのだろうか。
はっきりとは思い出せないが、恐らくその場を取り繕う為に曖昧な返答をしたに違いない。青年の瞳にさっと怒りの感情が過り、きつくマグナスを睨みつけたのを覚えている。
だがその様子にもマグナスの心は微塵も動かなかった。普段こんなにはっきりと怒りを露わにしない彼に理由を聞こうともせず、張り付けた社交用の笑顔で逆にこう問うたのだ。

「私に何か不満でもあるのか、レオナルド。安定した生活を約束され、自分は好きなことをして過ごし、それでもまだ何か私に求めるのか。だとしたらお前はいかに自分が傲慢か知るべきだ」

青年――レオナルド――は短い笑いを零した。怒りを堪えた嘲笑にも聞こえた。

「僕が望んでいるのはたった一つだ。台無しにしたのはあなたの方だ!!マグナス、僕はあなたを生涯許さない」

血を吐くようにレオナルドが叫んだ言葉には、憎しみが重く渦巻いていた。










マグナスが目を覚ますと乱れたシーツは汗で濡れていた。額に張り付く髪を掻き上げる手が僅かに震えているのに気づき、おもわず深く息を吐き出す。
――なんて夢だ。
暫く見なかった遠い記憶。夢だと分かっていても未だ心臓は高鳴り、呼吸をするたびに大きさが増している。
ふと視線を外に向けるとこの時期にしては珍しい強い風が窓ガラスを揺らしていた。雨は降っていないが音だけ聞けばあの日の再来だと思わないでもないだろう。恐らくこれの所為なのだ、あんな昔の夢を見たのは。
カーテンを閉めようとベッドから体を出すと、刺すように冷たい空気が肌を撫でた。シーツの中で温まっていた体は瞬く間に冷えて行く。
素早く窓まで歩み寄りカーテンを閉めると、ベッドに座り頭を抱えた。気持ちを落ちつかせる為にそうしたのだが、自分の呼吸すら耳について離れない。
一度目が覚めてしまうともう一度眠ることはひどく困難だ。こんな時は酒を飲み、高ぶった神経を和らげることが最も効果的であると経験上知っている。
丁度窓際のテーブルには眠りにつくまで飲んでいたシェリー酒とグラスが並んでいた。足早にそこまで近づき未だ震えが止まらない指先を情けなく思いながら、グラスの中に透明な液体を注いだ。
だがどうしてかそれを口に運ぶことができない。何度か遊ぶようにグラスを回していたマグナスだったが、結局口をつけることがないままテーブルに戻した。

今夜の夢は今まで見たどれよりも鮮烈であった。
あの時は分からなかったレオナルドの怒りの意味が今ならば痛いほどに分かる。傲慢だと彼を責めたあの日の自分を今は全力で殴ってやりたかった。
傲慢なのはマグナスの方だ。何も分かっていなかったなど言い訳にもならない。マグナスは何も分かろうとしなかったのだから。
胸に残る痛みさえ、彼を叱責しているようだ。あの夢こそここ数年マグナスを苛んでいる大きな理由であった。
――何故なんだ、マグナス――彼の苦しげな問いは生涯マグナスの耳から離れることはないだろう。レオナルドが生涯、マグナスを許すことはないのと同じように。

これ以上考えたところで眠れる事はないのだと半ば諦め、マグナスはいつもの起床時間まで書斎に籠もる決意をした。幸いなことにイギリスで1・2を争う程の書籍の数がグランヴェル邸にはある。
少しでも頭を働かせていれば余計なことを考えないで済む。そうすれば今夜の夢はまた記憶の中に埋もれることだろう。忘れることは出来なくとも、こんな風に思いだすこともなくなるのならそれでいい。
蝋燭に明りを灯せば暗闇に包まれていた部屋がぼんやりとした光に包まれた。慣れ親しんだ自室であるのにも拘らず、どこか知らない場所のようにも思える。
そこそこの高さがある天井から下がったシャンデリア、暖炉の上のギリシア神話の一説を描いた絵画。華美さよりも重厚さを求めた部屋で歴代の主たちは何を思い、何に苦しんだのだろうか。今のマグナスのように眠れぬ夜を過ごしたことなどあったのだろうか。
まったく、どうかしている。頭の中にはいつものマグナスからは想像もつかないような感傷的な言葉ばかりが並んでいる。そんな弱気な己を叱咤するかのように、マグナスはガウンの裾を合わせ冷たい空気で満ちている廊下へと出て行った。
しかし、廊下を照らす光は一つだけではなかった。隣の部屋のドアの隙間から一本の細い光の筋が出ているではないか。
隣の部屋を使っているのは一人しかいない。代々グランヴェル家の女主人――つまり今はエミリアだ。
しかしたら明りを消し忘れているだけなのかもしれない。もしそうならば、わざわざマグナスが様子を見る必要はない。だが、足は自然と彼女の部屋の前に向かっていた。
マグナスの部屋よりも一回り小さく女性の部屋らしい作りのドアは明りが洩れているということ以外は、夜の静寂にしっかりとその身を横たえている。その事実が急にマグナスに緊張を与えた。
エミリアの部屋を直接訪れたのはたった二度。一度目はエミリアが初めてこの邸に来たその夜で、彼女の意志の強い瞳に苛立ち、そして戸惑った。二度目は記憶に新しいラグバード公爵夫妻とのディナーパーティーの後。眠りに落ちたエミリアをマグナスが直接ベッドに運んだ。
一度目と二度目、そして今夜の三度目。日を重ねるごとにエミリアへ抱く感情は変化していく。穏やかでいて恐ろしいほど急激に。ノックを躊躇うのはその所為なのだ。

こんな時間だ。もし自分の考えが単なる思い過ごしだとしたら、エミリアはたいそう幸せな夢を見ているに違いない。
一度、そう一度だけ。ドアをノックして返事がなければマグナスは心おきなく書斎に向かい、自分が抱える様々な問題と静かに向き合うことが出来るだろう。そうする為にも馬鹿げた戸惑いなど捨てなければならない。
些か力の入り過ぎた拳でドアを叩く。しかしながら返ってくるのは静寂だけであってほしいというささやかな期待は呆気なく崩れた。ドア越しにくぐもったエミリアの声が耳に届いたからだ。
こうなってしまっては扉を開けないわけにはいかない。マグナスは精一杯胸の中で言い訳を繰り返しながら、妻の寝室へと足を踏み入れた。
中に入るとエミリアは僅かな蝋燭の明かりの中で手紙を書いているようだった。ベッドから少し離れた場所にあるテーブルには書き途中の手紙が数枚広がっていた。

「マグナス?どうして…一体どうしたんですか、こんな時間に」

マグナスの姿を瞳の中に映し、これ以上ないくらい目を見開き全身で驚きを露わにした彼女は慌てて椅子から立ち上がるとマグナスの傍まで近づいてきた。
薄い夜着にストールを羽織っただけの恰好におもわず眉を顰める。今夜は特別冷えるというのに、彼女は一体何時間この恰好で手紙を書いていたのだろうか。蝋燭のゆらゆらとした儚げな炎の中でいっそうエミリアが華奢に見える。
怒鳴りたい衝動に駆られながらも必死で冷静を保ち、マグナスはエミリアの肩にかかっているストールの前を掻き合わせた。案の定触れたエミリアの肩はすっかり冷え切っていた。

「それは私が聞きたい。廊下に明りが漏れていたから覗いてみたものの……こんな恰好で、こんな時間まで何をしていたのだ」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。お友達に手紙を書いていたんです」
「友達?」
「ええ、先日お話しましたでしょう?ディナーパーティーで仲良くなれた女性がいるんです。クリスティーナ・ダレル嬢です」

エミリアから告げられた女性の名には聞き覚えがあった。確か男勝りで、父親の狩りによく同行していると噂がある。ダレル卿には確か子息もいた筈だが、未だどこかのパーティーで会ったことはない。
父娘共に悪い噂は聞かないのだから、エミリアにとって害のある存在ではないのだろう。それにこれから社交界に出入りする為には一人でも多く貴族の令嬢と繋がりを持った方がいい。マグナスの目が届かない時、ダレル嬢が味方になってくれるのなら心強い。
マグナスは強く頷いた。

「ああ、確か今度邸に招くと言っていたな。いつでも歓迎しよう」

マグナスが約束を覚えていたことにエミリアは嬉しくなり、顔を綻ばせた。その笑顔にマグナスの強張った心も漸く解け始めていた。
窓を揺らすほどの風は衰えを知らないかのように更に強くなるが、たった数分前のように風の音を聞くたびに罪と後悔の意識に襲われることはなくなっていた。
エミリアの傍は心地がいい。彼女の前では偽りを並べなくてもいいような気さえしてくる。ふとした瞬間に彼女をこの腕の中に閉じ込め、長年幾重にも鍵をかけてきた記憶を吐き出してしまいたくなる。
そんなことはするなと咎める一方で、あと少しだけこの温かさに身を任せていたくて仕方ない。せめぎ合う2つの全く別の感情は、交互にマグナスの思考を掠めていった。

そっと手を伸ばしエミリアに触れる。柔らかな髪を梳き、親指で頬を撫でた。言葉に出来ない感情が堰を切ったかのように溢れだして止まらなくなるのは分かっていたはずなのに、マグナスは何度も繰り返しエミリアに触れた。

「マグナス……?」

何かを問いかけるような瞳に、首を振って答える。エミリアはそれ以上は何も聞かなかったが、不意に手を伸ばすとマグナスと同じように彼の髪に触れてきたのだ。驚いてマグナスが動きを止めようと、エミリアは終わりにしようとはしなかった。身長差を埋める為につま先で立つのは疲れるだろうに。
――これ以上は危険だと本能が告げていた。きっともう、取り返しのつかない所まで来ているのに最後の砦だけは壊したくなかった。
マグナスはエミリアの腕を掴むと優しく彼を撫でていた手をそっと自分から離した。触れていた体温がひどく名残惜しかったが、そうしなくてはならなかった。それがマグナスのプライドでもあった。

「冷たい体だ。もうベッドに入りなさい。君が風邪を引いたら私がダニエルに恨まれる」
「マグナスはどうするのですか?戻られるんですか?」
「いや、私は眠れそうにないから書斎に籠ろうと思っていたんだ」
「それじゃあ私と話すのはどうでしょう?話しているうちに眠くなるかもしれませんよ」

ベッドへと促すかのように肩に置かれたマグナスの手を握り、エミリアは名案だと言わんばかりにそう口にした。

「何を言ってるんだ。それでは君が眠れない」
「どちらかが眠くなったらお喋りは終わりにしたらいいんです。そうしたら問題は何もありません」
「私が先にそうなるとは考えていないのか?」
「あら。そうしたらマグナスは遠慮なさらず私のベッドでお休みになってください。一人用にしては大きすぎますから、二人で寝ても大丈夫ですよ」

――君は全く何も分かっていない!
マグナスはそう叫びたくて仕方なかったが、エミリアの笑顔を見ていると本当に何も分かっていないことだけははっきりとした。
確かに夫婦関係を持ったことはない。だがしかし、今までがそうだったからといってこれからもそうだとは限らないことを彼女は知らない。特に日に日にエミリアに向ける感情が変化していると自覚がある分、触れたいという欲は同じように増しているのだ。
理性は持ち合わせている。これまでに幾度か欲に勝った経験もある。それがエミリアに同じように働くとは到底思えないが。
どんな気持ちで髪を撫でていた彼女の指先を無理矢理離したと思っているんだ?きっとそのまま強引に手を引いて口づけてしまうと思ったからそうしたのに、マグナスを試しているのだとしたら相当な策士だ。
ここでマグナスの欲望を分からせるのも一つの手だが、幾度となくエミリアを傷つけてきた方法でもある為どうしても避けたい。そうなると必然的にエミリアに従うしかマグナスには道は残されていなかった。

夢の次は現実に悩まされると一体だれが想像していたというのだろう?マグナスはおもわず天を仰いだ。
それでもエミリアの体温が近くにあるだけで、心が穏やかになるのは事実であった。
エミリアの隣に一人分開いた場所にマグナスは腰を落ち着けた。どうしても同じベッドに入ることだけは出来ないが、これが最大限の譲歩だ。

「さて、何を話しましょう?」
「まずは君のことからだ。子供の頃から順番に話してくれ」


そろそろ過去と向かい合う時であるとマグナスは感じていた。新しい感情が芽生えてくるのなら、置いてきた感情を手元に戻してもいい頃だと。
恐らく辛いものだ。途中で目を逸らさない自信はない。
だが記憶の中にレオナルドがいる限り――マグナスの後悔は決して消えることはないのだ。







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