これ程までのディナーをエミリアは知らなかった。公爵家の権力を誇示するような贅を尽くしたダイニングルームの高い天井には大きなシャンデリアが下がり、その他の照明具が優雅な光を放っていた。
壁には歴代の公爵の肖像画が掛かっており、その重厚さに呑まれそうにもなる。その他にもキャビネットや様々な調度品が並んでいたが、まったく狭さを感じないということはそれ程この部屋が広いということだろう。
食事は文句のつけどころがないほど素晴らしかったし、リチャードの話は申し分なく面白かった。
初めてのディナーパーティーでこれほどリラックスした時間を過ごせたのはリチャードのお陰でもあるだろう。彼は話し上手であると同時に聞き上手で、エミリアも知らず知らずのうちに饒舌になっていたのだった。
エミリアはそっと感嘆の溜め息をついた。まるで夢の中にいるような不思議な気持ちだ。

食事の最中、何度かマグナスと目が合った。彼の目は何か言いたげにエミリアを見つめるが、決まって最初に逸らすのはマグナスの方だった。それになんとも言えない寂しさを感じるのは可笑しなことだろうか。
リチャードには気にしないことにしたと言ってみたものの、完全に思考から切り離すことなど無理だった。矛盾していると自分でも呆れるが、令嬢の華やかな声が聞こえる度に心臓が不自然なほど跳ねてしまうのだ。
きっとその時の感情がそのまま顔に出ていたのだろう、リチャードは何も言わなかったがきらめくような瞳が実に面白いと雄弁に語っていた。エミリアにはマグナスのような無表情さは到底真似できるようなものではないと身を以て知った瞬間でもあった。

ディナーが終わりを告げると、余程の理由がない限り大抵の客はそのまま邸に残る。ただしここから男性は応接間(ドローイング・ルーム)で、女性は隣接するモーニング・ルームで談話を楽しむことになるのだ。
応接間には劣るが、それでも充分な広さを持つモーニング・ルームは女性の部屋らしく大きな窓と柔らかい色合いの調度品が印象的な部屋だ。既に何人かの女性たちは椅子に座りながら今夜のディナー・パーティについて各々感想を述べている。
耳をすませば、華やかな笑い声に混じって男性に対する少し辛辣な言葉もいくつか聞こえてきていた。ほぼ中央にはマグナスの隣に座っていた可憐な令嬢が得意げな表情で周りの若い女性たちに何か言っていた。
エミリアが近くにいることに気付いたのか、令嬢の赤い唇が魅惑的な弧を描く。ディナーの時にはまだ幼さが残る可愛らしさが目立っていたが、今の彼女にははっとするような美しさがあった。

「レディ・ラザフォード。今伯爵について話をしていたところなんです」

一斉に女性たちの目がこちらを見る。嫉妬、羨望、侮蔑、それぞれに様々な意味合いを込めた瞳だ。

「伯爵様は素晴らしいお方ですわね。私、人見知りが激しいのですけれど、ずっと気を配って頂いて。本当に嬉しかったとお伝えくださいね」

エミリアは辛うじて笑顔を浮かべるだけに留まった。彼女はマグナスが自分を特別に扱ってくれたことをエミリアに言いたいだけなのだ。だったら余計なことは口にしない方がいい。
だが自慢一つで終わると思っていた会話は思った以上に続くようだ。令嬢――フロスト子爵令嬢――はエミリアに近くに座るよう勧め、今夜のマグナスがいかに事細かに彼女のことを気にかけていたか声高だかに話し始めたのだ。
曰く、父親の紹介で来た画家が酷いものだったと言えば、マグナスはあなたの美しさを画家が表現できないことが残念だと言っただとか。機会があればグランヴェル邸に来るように言われただとか。
嘘とも真実ともつかぬ言葉が溢れんばかりに令嬢の口から飛び出していくのを、周りの女性たちはうっとりと時折溜め息を零しながら聞き入っていた。
ある程度彼女が満足すると、話題は次々と移り変わって行った。今度の社交界にデビューする令嬢の話から、ロンドンの最新のファッションまで彼女たちの話は尽きることがない。
誰かが一流の裁縫師は誰かと問えば、それぞれに自分が最高だと思う裁縫師を上げ彼らが作ったドレスがいかに美しく流行を追い、それでいて気品を失っていないか流れるような言葉遣いで説明する仕草は流石だとエミリアは感心した。

「ところでレディ・ラザフォードはどちらのご出身なの?」

周りを取り巻いていた一人の令嬢が無邪気さを装ってエミリアにそう尋ねた。
覚悟していた時間だ。初めて社交の場に出席するからにはこういったこともあるだろうと多少は覚悟していたが、まさかこんなに早くその時が来るとは思ってもみなかった。まだ年若い令嬢たちにとって名家に嫁いだ人間が元家庭教師であるだけで、何カ月も噂話ができる要素になる。
エミリアはロンドンから遠く離れたヨークシャーの出身だ。彼女自身は自然に囲まれ喧騒を知らない静かな日常を愛しているが、華やかな社交界に生きる女性たちは恐らく眉を顰めるだろう。
案の定エミリアが答えると数人は一瞬言葉を失ってから、隣の女性と目を合わせ静かに笑ったのだった。
もし彼女たちの誰がエミリアに恥をかかせる為にこの質問を選んだのだとしたら、半分は成功し半分は失敗に終わっている。令嬢たちにとっては田舎は嫌悪すべき場所なのかもしれないが、エミリアにとっては最高の故郷なのだ。例え誰に何を言われようと、決して出身を恥じたりすることはないだろう。
――これで私がロンドンに行ったこともないと知ったら、彼女たちはどんな反応をするのだろうか。エミリアは心の中でそう呟いた。きっと驚きを通り越して卒倒するに違いない。

「ヨークシャーは素晴らしい所ね。昔父に連れられてよく狩をした事を覚えているわ。今でも大好きなところよ」

不意に頭上から声が聞こえ令嬢たちの意識がエミリアからそちらに移る。エミリアが顔を上げると、茶色の髪を優雅に結った女性が立っていた。

「どなたかと思ったら…ごきげんよう、ダレル嬢」

暫く呆然とダレル嬢を見ていたフロスト嬢が――まるで彼女だと分かった瞬間に、うっすらと口元に笑みを浮かべながらそう挨拶した。周りの令嬢たちもお互い目配せをしながら些かわざとらしい礼をする。

「それにしても女性の身でありながら狩だなんて。ダレル嬢はお噂に違わぬ快活さですのね。よく耳にいたしますのよ、ダレル嬢はまるで男性のように乗馬も剣もこなすと。私にはとても真似できませんわ」

これが彼女たちが笑っていた意味なのだ、とエミリアは瞬時に悟った。くすくすと零れる笑い声がフロスト嬢の嫌味に混じって不快感を増す。
確かに女性で乗馬も剣も嗜む人は珍しいだろう。だが、長い歴史を見ればまったくいなかったわけでもない。それをまるで罪のように言うのはあまりに馬鹿げている。
次に令嬢たちが何か言ったら黙っていられる自信はなかったが、当の本人であるダレル嬢はまったく気にしていないようだった。彼女は令嬢たち全員ににっこりと笑いかけた。琥珀色の勝気な瞳は生き生きと輝き、素晴らしく魅力に溢れている。

「ええ、私も下世話な話ばかりするあなたたちの真似などとてもできませんわ」

女性たちの笑い声が一瞬にして止んだ。綺麗な笑顔を浮かべているダレル嬢とは反対に、令嬢たちの顔が次々と強張っていく。

「何を仰っているのかしら。私たちがいつ下世話な話など?」
「あら、気づいてらっしゃらなかったの?あなた方の会話全てこの部屋にいる皆さんが聞いていますが、どこから説明したらよろしいでしょう」

今度こそフロスト嬢の顔は怒りで赤く染まった。これほどまでの侮辱を受けたのは初めてなのだろう、唇を戦慄かせ何か言おうと口を開いたがそれが言葉になることはなかった。

「ええ、ダレル嬢の言う通り私が証言いたしましょうか」

パーティーの主催者であり、社交界に絶対的な権力を持つラグバード公爵夫人がゆっくりと言葉を紡いだからだ。彼女の口調はあくまで穏やかだが、逆らえば社交界にいられなくなることぐらい誰もが知っている。
社交界から爪弾きにされれば、二度と夜会に出席できなくなるどころか自身の結婚すらも危うくなる。それだけ社交界というのは貴族の生活に深く根付いているのだ。
それを知ってまで公爵夫人に楯突く愚か者はいないだろう。令嬢たちは顔を赤くしたり青くしたり、悔しそうに唇を噛んだりと様々であったが遂には全員モーニングルームから逃げるようにして出ていった。
あっという間の出来事にエミリアは瞬きをするのすら忘れていた。はっきり言って思考がついていかない。ラグバード公爵夫人から不快な思いをさせてしまったと謝罪を受けたが、首を振るのが精一杯であった。
エミリアは楽しそうに笑うダレル嬢を見た。さきほどまでの鋭いような雰囲気からは一変し、こうして見るとエミリアと歳が変わらないようにも見えた。

「あの…ダレル嬢」

おずおずとエミリアが切り出すと、ダレル嬢は嬉しそうに振り返り言った。

「クリスティーナよ。あなたとお話してみたかったの、レディ・ラザフォード」





*






マグナスは座り心地のいい椅子に体を預け、漸く肺一杯に空気を取り入れた。彼の耳には気の置けない友人たちの会話や政治的な話などが流れ込んでくる。
晩餐会は一言で言うと酷く疲れた。思い出すだけで頭痛がしてくる。
少し上目遣いに話す少女の話は気を張った晩餐会を更に憂鬱な気分にさせるに充分なものであった。ディナーが始まってからというもの、似たような話を何度も繰り返しされればどんなに心の広い人間でもマグナスと同じ苛立ちを感じるだろう。
食卓には公爵家に相応しい豪華な食事が並んでいるというのにそれを楽しむ余裕など与えないというように令嬢は話を振ってくる。去年のデビューの時に踊った紳士のダンスは酷いものだったとか、裁縫師が彼女の好みを間違えただとか、紳士として一応礼儀正しく会話の相手をしていたが顔を引き攣らせないだけでも一苦労だった。
多くの男たちは彼女の無邪気な会話を「愛らしい」と表現するだろう。女性たちは結婚するまでなるべく無垢であることが望まれるからだ。しかし無知は時として無礼にもなり得る。
相手のことを考えない一方的な会話や、媚びるような視線にはうんざりだ。自分の容姿に余程の自信があるらしいが、残念なことにそういった類の美しさには慣れていた。いや、彼女たちの方が隣の令嬢よりもいくらか気品はあった。
マグナスの目にはうっすらと紅色に染まった頬ですら演技の賜物にしか見えなかった。

それと同時に思い出すのは長いテーブルの向こう側で、リチャードが優しい目でエミリアに笑いかけてい姿だ。リチャードが何か言ったのだろうか、隣に座る彼女は頬を赤らめ俯く。
こうして数時間前の記憶を辿るだけでマグナスは自分の胸の奥で何か黒いものが渦巻くのを感じていた。怒りなのか苦しみなのか痛みなのか、それら全てなのか、それ以外なのか。言葉にするにはどう表現していいか分からない、大きな不快感。
テーブルを挟んだ会話は無礼だとされていなければ、マグナスはすぐにでも2人の間に割って入りたい気分だったのも事実だ。何度自分を押し留めたか分からない。
この胸を焦がすような感覚はこれまでに幾度となくあった。そしてその度にマグナスの中でエミリアの存在が大きなものになっていく。――自分でも戸惑う程の早さで。

マグナスは奥歯を強く噛んだ。今は自分がどんな表情をしているのかさえ知りたくない。
執事が配っていたワインを煽れば、芳醇な味と香りが僅かだが張り詰めた神経を解してくれたような気がした。続けてもう一口飲もうとグラスを傾けると視界の端に、一人の男が映った。
彼――リチャードはその顔に嫌味なほどの笑顔を乗せて、迷うことなくマグナスの方へ向かって歩いてくる。

「君の選択は間違っていなかったようだね」

リチャードの言う選択が一体何を指しているのか、マグナスは分かっていたが敢えて何も答えなかった。確かにエミリアを妻に迎えたことは間違いではなかったのだろう。ダニエルは彼女のお陰で子供らしくのびのびと暮らしている。
だが一方でマグナスの冷静さを掻き乱すことを考えると、果たして最良の選択だったのかは答えに詰まる。妻に迎えたのがエミリアでなかったのなら、もっと別な返事ができただろう。
リチャードはマグナスの無言の返答に何故か満足を覚えたらしく、満面の笑みで頷いた。今夜のリチャードは始終機嫌がよさそうだ。

「やあ、マグナス。暫く会っていないうちに再婚したそうじゃないか」

リチャードがマグナスに話しかけたのを何かのきっかけにしたのか、次第にマグナスの周りに人が集まってきた。どの男も昔からの顔馴染みで、狩を共にしたこともある。
揃ってマグナスが再婚したことへの祝辞を述べ、それから遠まわしに式に呼ばなかったことを責めた。好意はありがたいが、エミリアはあまり派手なことは好まない。友人たちには悪いが今になって結婚式が内輪だけのものでよかったと思う。
彼らはエミリアについて色々聞きたがった。マグナスが頑なに口を閉ざすと彼らの矛先はリチャードへ向く。リチャードは程良くエミリアについて話し、それ以外は得意の笑顔で流していた。
――ここ数週間で、マグナスはエミリアについて多くのことを知った。初めにリチャードに説明した通り、一言で言うと強情な娘だという認識に変わりはない。だが、あの時とは言葉の意味合いがまるで違っていた。
彼女は例え圧倒的に自分が不利な立場にあっても、立ち向かえるだけの強さを持っている。そして同時に他人を強く惹きつける。その根底にあるのが包むような優しさなのだとマグナスは分かっている。自分もそれに触れた一人なのだ。

「まったく驚きだな。あのマグナスを落とせる女性がいただなんて」
「それだけ奥方が魅力的なんだ。ディナーの前に一度話しておくんだったな」
「へえ、それは一度お相手願いたいものだね」

和やかな空気を一瞬にして裂く様に、卑劣な笑みを浮かべた男の声が会話に割って入った。整って然るべき服は僅かに乱れ、だいぶ酒が回っているのか足取りは覚束ない。
マグナスを見るその目だけが気味悪いほどに輝き、飢えた獣のような雰囲気を醸し出していた。
辛うじてまだ名門と言える爵位に縋り、ギャンブルに金を注ぎこみ借金を繰り返していると聞く。貴族がギャンブルに負け借金をすることはそれほど珍しことではないが、膨らんだ負債の所為で没落していった家も多いのだ。
かつてこの男はマグナスにカード勝負を挑み、無残に負けたことがある。そのことを未だに根に持っているのか事あるごとに何かとマグナスに絡んでくるのだ。
この男が社交界から追放される日も遠くないだろう、とマグナスは思った。彼にはもう気品の欠片も見当たらない。目の前にいるのはもはや紳士とは呼べない無様なただの男だ。

「口を慎むんだ、チェスター」

リチャードの咎めるような声にもチェスターは黙らなかった。下卑た笑いをますます深くし、マグナスの神経を逆撫でする。

「奥方は元家庭教師だと言うじゃないか。君が夢中になるということはそれだけ夜の具合がいいのだろう?」

次の瞬間チェスターは最高級のカーペットの上に投げ出されていた。頬に熱が走ったのは一瞬のことで、痛みよりも見上げたマグナスの気迫にチェスターは言葉を失った。
グレーの瞳は明確な殺意を持って彼を見下ろしていた。海底のように深く淀んだ目に怯えた表情のチェスターが映る。声を出そうにも空気が喉を通るばかりで言葉にはならない。その間にも一歩一歩マグナスは近づいてきていた。
冬の海に裸のまま沈められたような心地だ。今やチェスターの顔に血の気は失せ、暖かい火が灯っている部屋とは思えないほどにがちがちと歯が鳴る。ほんの少しからかってやるつもりで言った言葉だった。その整った顔が少しでも不快気に歪めばそれでよかった筈だった。
チェスターは漸く己の言葉の重を感じ始めていた。

「決闘ならいつでも受けて立とう。二度とその汚れた舌で妻を語るな」


言葉にならないまま、チェスターは何度も首を縦に振った。マグナスの言葉は氷のような冷たさと激しい痛みでチェスターの胸を刺していた。












時計も2時を回ったところでディナーパーティーは一応の終息を見せた。
帰りの馬車に乗りながら冷たい外気にエミリアが晒されぬよう、厚手のブランケットで彼女を包む。眠気と必死で戦っているらしいエミリアはマグナスの肩に凭れながら、小さな声でお礼を言った。

「いいから眠りなさい。家に着いたら起こそう」

マグナスの問いにエミリアはゆっくりと目を閉じる。寄せた華奢な体の温かさに、マグナスはこの上ない安心感を覚えていた。彼女が寝苦しくないようにだいぶほつれてきた髪を解けば、長い金色の髪が優しく彼女を縁取った。

「お友達ができました。今度家に呼んでもいいですか?」
「ああ、好きにしなさい」

エミリアがうっすらと笑みを浮かべ、数分もしないうちに安らかな寝息が聞こえてくる。マグナスはもう一度エミリアの肩にブランケットを寄せ、彼女をしっかりと抱きしめた。
ほんの数時間離れていただけなのに、この香りがひどく懐かしい。今夜は散々なパーティーであったが、エミリアにとって何かしら思い出ができたのならそれでいい。
安心しきった顔で全てをマグナスに委ねるエミリアの顔をここまで間近で見たことなどあっただろうか。好奇心旺盛な薄茶色の目も、楽しそうな笑い声が零れる唇も閉じられているのは寂しい気もするがもう暫くこの寝顔を見ていたい気もする。

マグナスはそっとエミリアの額にキスを落とした。
今の感情を表すのには言葉よりも口付けの方が近い気がしたからだ。


「いい夢を」


馬車の窓からは雲に隠れた銀色の月が見えた。







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