あの日から幾日も過ぎ、マグナスはこんなにも静かで穏やかな日々が続くことに驚いていた。
今までの生活と言えば酒にカードに一夜の情事の繰り返しで、刺激的ではあったがどこか味気なくまるで砂を噛んでいるような日々であった。つい数カ月前まではそれを当り前のことだと享受し、何の疑問も持たなかった筈なのに今のマグナスにとってあの日々の再来は苦痛以外の何物でもないように思えた。
自分の生家ではあるにしろ心のどこかでこの邸を遠ざけていたのは事実だ。優秀な執事、誠実な乳母、従順な使用人、そして誰もが羨む名家としての誇り。マグナスの持つものは多いが同時に失ってきたものも多い。
それとも、失う以前に元から手に入れていないと表現する方が正しいか。いずれにしても今まではマグナスの周りに必要でなかったものだった。
ダニエルに対しても一線を引いていたと認めざるを得ないだろう。マグナスは一度だってダニエルを抱き上げたことは勿論、エミリアのように愛情を持って名前を呼んだことすらなかったのだ。
どこか義務的に呼ぶ名前がどれほど冷たい響きを持っているか、マグナスは嫌というほど知っていた。彼の父親もまた、家族に愛を向けるような男ではなかった。典型的な貴族の男と言った方がいいだろう。社交界に顔を出し、クラブで一晩中遊びに耽り、愛人と別邸で夜を明ける。母親も同じで、幼い頃父や母が彼の為に時間を割いてくれたことなど一度もなかった。
父親が彼を呼ぶ時は大抵何かしらマグナスが犯した失敗をいかに愚かなことか延々と垂れる前触れのようなものだ。その為マグナスは幼くして誰の手も煩わせない賢い生き方を身につけていた。
何も面倒を起こさず、聞かれたことだけに簡潔に答えれば両親は満足だったのだ。

その点ダニエルはマグナスとまるで正反対だ。――いや、エミリアの影響でそうなったと言った方がいい。
彼女がグランヴェル邸に来てからダニエルは大きく変わった。喜怒哀楽を出し、エミリアに甘え、時には我が儘も言う。もう光のない瞳でぼんやりとしているだけの息子はどこにもいなかった。
嬉しく思う半面、子供らしく笑うダニエルのいきいきとした表情がマグナスを苦しめていた。熱心にエミリアを見つめる瞳、くるりとした柔らかそうな髪、記憶と寸分も違わず重なる笑顔。それらを目にする度胸の奥が激しく軋む。
痛みなどという感情はとうに捨て去ったものだと思っていたが、どうしてか未だ心の中に残っていたらしい。そしてその痛みはマグナスとダニエルの間にある溝をいっそうに深くするばかりだった。
伸ばした手がダニエルの頭を撫でることも、喉まで出かかった声が言葉になることもない。マグナスはいつも通り無表情で息子を見下ろすだけだ。それがこの3年間の日常であり、マグナスが頑なに守ってきた生活でもあるのだ。

エミリアとはあの後数度朝の散歩を共にしたがどうしてもダニエルを一緒に連れていく気が起きなかった。その度にエミリアから咎めるような視線を受けようと、時間が早い事を理由にそれ以上踏みこませないようにしている。
何故か、と問われたら答えはたった一つではあるものの、それを言葉にする術を知らない。幾重にも交差した複雑な感情をどう表現していいのか分からないのだ。
まだ真実を口にするのにはエミリアとマグナスの距離も遠すぎる。いや、初めから彼女に話す気などなかった。
秘密は今もマグナスの胸の中に頑丈な鍵とともにしまってある。リチャードには端的に話してあるものの事の全ては知らない。つまり物語の始まりも終わりも知っているのはマグナスだけで充分なのだ。


左手にある窓から暖かな日差しが降り注ぐ中で、マグナスは深く溜息をついた。広げてある年代物の本は先ほどから何度も意識を別の場所へ飛ばしている所為か、一向に進む気配がない。
天井までそびえ立つ壁一面の本棚と、中央に置かれた重みのある机。グランヴェル家の歴史を表すような貴重な書籍が書かれた年ごとに分けられている。
紳士の教養の証とも言える書斎は主人以外の何人の侵入も許さない。例え夫人であろうとも夫の孤独な時間を邪魔する権利は持ち合わせていないのだ。全てを心得ている優秀な執事にはよっぽどのことがない限りマグナスがこの部屋から出てくるまでドアの外で控えているように伝えてあった。
既に半分も思いだせそうにない本を閉じ、マグナスは窓の近くまで歩み寄った。自室程ではないものの、長靴が響くには充分な広さがある。
ここから見えるのは目を楽しませる為に造られた庭ではなく、どこかもの寂しげに並んだ木々のみだ。その彼方を見つめながらもう一度溜めていた息を吐いた。
ここ数日胸を騒がせている感情を整理しようと一人書斎にこもったのはいいが一向に答えが見えてくる様子はない。意識は散乱し、集中しようにも上手くいかないからだ。
――今頃エミリアたちは庭にいる頃だろうか。
疲れた思考を引きずりながらふとそう思う。ダニエルは父親に倣ってか、それとも対抗してか、朝食の後エミリアを広い庭を一周する大がかりな散歩に付き合わせている。馬もないそれはひどく疲れるだろうと気がかりだったが、当の本人たちは至極楽しそうな表情で帰ってきていた。
その散歩があるお陰か、エミリアのレッスンの間ダニエルは大人しくナタリーの世話になっている。ナタリーもあの一件以来ダニエルの扱いをエミリアと相談しながら少しずつ変えているようで、今のところ例の癇癪が起きる前兆のようなものは耳にしていない。
もっとも、マグナスがこんなに長く自分の領地にいたことすらとても珍しいことなのだが。

ミセス・タリスの話では伯爵夫人としてのレッスンも滞りなく進んでいるらしい。元家庭教師という職業柄、彼女は学ぶことも好きなのだ。負けず嫌いな一面もあることから吸収の早さに拍車がかかっているのだろう。
間近に迫ったラグバード公爵のディナーパーティーも、不安を覚える必要はなさそうだ。その事実は伯爵夫人となって間もないエミリアにいきなり大仕事を突き付けたという罪悪感をほんの少しだけ軽くしてくれた。

マグナスは何かを決意したときのように一旦目を閉じ、余計なことを一切思考から排除した。何も問題はないと自分に言い聞かせる。
そして再び長靴を響かせながら書斎のドアを開けた時、その先には頭を下げたネルソンの姿があった。






*





「さあ動かないでくださいませね。何しろ最後の仕上げですから」

そう言いながら裁縫師であるミセス・マドックは素早くドレスの手直しをしていく。形自体はシンプルなエンパイアドレスは白地で裾に薄い桃色の細かな刺繍が施されている繊細で美しいものだった。
ふんわりとした袖にも同じ花模様が描かれているばかりではなく薄らと肌が透けて見え、後ろの裾は前のそれよりも幾分か長く広がって出来ている。
想像よりもずっと素晴らしいドレスにエミリアをはじめ傍でダニエルを抱いて見ていたナタリーや、後ろで控えているミセス・タリスも感嘆のため息を零した。エミリアの体に細身のドレスが映え、どちらも一層の輝きを増しているように見える。

「本当にお綺麗ですわねぇ」

まるで独り言のように呟いたミセス・タリスの声にナタリーも心の中で同意する。
裁縫師は得意げに鼻を鳴らし、本当に最後だと言わんばかりの小気味よい音を立てて刺繍糸を切った。やっと解かれた緊張にエミリアも漸く安堵の息を漏らすことが出来た。

「ご贔屓頂いている伯爵家の奥方様のドレスともなれば、当然気合も入りましょう。私の作ったドレスで前の奥様が社交界の花になられたときは、そりゃあもう鼻が高うございました」

それまでにこやかに話を聞いていたミセス・タリスの表情が一瞬強張った。だが皆彼女に背を向けていた所為でそれに気づいた者は一人もいなかった。

「前の奥様の時も貴方が?」

エミリアは初めてマグナスの前の奥方の話が出たことで興味ありげな視線を裁縫師に送った。今まで誰も教えてはくれなかったし、エミリアも敢えて聞こうとはしなかったのだが不意に出た話題におもわずそう返していたのだった。
裁縫師もその時のことを思い出したのか、段々と声が大きくなっていく。

「ええ、ええ。よく知っておりましたとも。私が知る中であれ程お美しい方は2人とおりません。流れるような金色の御髪に、憂いを帯びた青い瞳。あの方に合うドレスを縫うのが何よりの楽しみで。伯爵様と並ばれるとまるで絵画のようでしたわ」

力のこもった裁縫師の言葉にエミリアは想像で前の奥方を思い描いた。そして少しだけ惨めになった。
美しい金色の奥方に寄り添うマグナスの姿までもがありありと思い浮かぶようであった。前の奥方のことを話してくれないのは、まだ口にするのも辛いほど愛していたからじゃないのだろうか。
いつか感じた不可解な痛みは、あのときよりもずっと大きくなってエミリアの胸を刺す。今度ははっきりと「痛い」と感じるほどに。
エミリアは自分の体を見下ろした。流行のドレスに身を包み、メイドたちの手によって髪を結われ、鏡に映るのはもう襟の詰まったドレスにきっちりと髪を纏めていたあのエミリアではないのだろう。
だがやはり今の全てを脱ぎ捨てたとしたら、やはりエミリアは貴族ではないのだ。洗練された動きも、言葉遣いも、ドレスのように「身に纏っている」だけで元から備わっているものではないのだから当然だ。
だが前の奥様は違うのだ。家柄も美しさも兼ね備え、マグナスに望まれて妻になった。そもそもダニエルのことがなければマグナスとエミリアは出会うことさえなかっただろう。

「話を聞いていれば分かります。とても素晴らしい方だったのでしょうね」

自分の声は震えてはしないだろうか。笑顔が不自然ではないだろうか。
エミリアは漸く絞り出した言葉を不安でいっぱいのまま口にした。

「そうですとも!あの方以上にラザフォード卿夫人に相応しい方はおりません」
「ミセス・マドック。お疲れになりましたでしょう、旦那様がいらっしゃるまでお茶をどうぞ!」

遂に我慢出来ずミセス・タリスが叫ぶようにそう言った。そしていつもよりも数段大きな声でメイドを呼び、お茶を用意するように指示をした。
だがミセス・マドックに伯爵家自慢の紅茶が振舞われることはなかった。
メイドの代わりに執事を連れたマグナスが、エミリアたちのいる部屋のドアを開けたからだ。

「邪魔だとは思ったのだが、妻の新しいドレスを一目見たくてね」

突然の主人の登場に一瞬呆気にとられた使用人たちだが、すぐに表情を引き締め彼に頭を下げた。慌ただしく動く使用人たちにそのままでいるように指示し、マグナスは近くにあったビロード地の肘掛椅子に腰を落ち着かせた。
その数歩後ろには相変わらずネルソンがいつでも主人の要望に応えられるよう、姿勢正しく控えている。
長い脚を組んだマグナスは肘掛に片方の腕を立て体重を預けた。もう片方の肘掛には彼の長い指が規則正しいリズムを刻んでいる。
社交界の女性たちが見たら誰も彼もが間違いなくうっとりとするか、溜息を零すに違いない。それほど今のマグナスは魅力に溢れていた。額にかかる黒髪も、あれ程冷たいとしか思えなかったグレーの瞳もまるで一流の芸術家によって作られたもののように完璧だ。
エミリアは自分でも気付かないうちにマグナスを熱心に見つめていたのだろう。ふと彼の瞳がエミリアを捉え、息が止まるかと思うような熱のこもった視線を向けた。マグナスの視線が糸となったのならきっと幾重にもエミリアの体に巻きついているに違いない。

「ま、まあ!ご無沙汰しております伯爵様。最後にお目にかかったのはいつだったのか…」

暫く呆然とマグナスを見つめていたミセス・マドックも我に返ると嬉しそうな声でマグナスに近づいて行った。
厳しい表情を浮かべるミセス・タリスとは正反対にマグナスの顔はいつもと変わらない。ミセス・マドックが傍まで来ると同時に椅子から立ち上がり満足そうに首を縦に振っただけだった。

「いいドレスだ。デザインも色も申し分ない」
「恐れ入ります」

ゆっくりとマグナスはエミリアの周りを歩き始めた。頭のてっぺんからつま先まで余すところなく視線を感じ、エミリアは恥ずかしさのあまりどこかに隠れてしまいたい気持ちを抑えられなかった。
何しろこんなにじっくりとマグナスの目に晒されたことなど今までなかったからだ。しかも今着ているのは肌が適度に透ける白で胸元が大きく開いているドレス。こんな風に見られて平気でいられるわけがない。

「あの…マグナス」

羞恥に耐えきれなくなって控え目にマグナスの名を呼ぶが、マグナスが聞いている様子はない。前に後ろにと響くマグナスの足音から一瞬たりとも気が逸らせず、心もとない視線をナタリーとダニエルに向けるに止まった。ナタリーは苦笑いでエミリアに同調してくれたが、まだ幼いダニエルにはよく分かっていないのだろう。不思議そうにエミリアを見つめ返していた。
一通り見終わると満足したのか、ミセス・マドックの方に目を映し「上出来だ」と最上級の褒め言葉を口にした。イギリスでも有力貴族であるマグナスに認められたことがよほど彼女のプライドを満たしたのだろう、ミセス・マドックの顔には今や自身が溢れていた。

「ネルソン、彼女にドレス代金を」

後ろを振り返ったマグナスは控えていたネルソンにそう告げた。

「畏まりました旦那様。すぐに用意してまいります」
「まあまあまあ!そんなものは後で届けさせてくだされば結構ですのに!」

ネルソンが恭しく頭を下げると同時にいささか大げさすぎるほどの声量でミセス・マドックは言った。今までだってドレスを届けたその日に代金をもらうことは滅多になかったし、店に届けてもらった方が次の仕事の為に少しだけ都合がよかった。
だからお気になさらず――そう言おうとしたが、ミセス・マドックはその言葉を口にすることが出来なかった。
さっきまであれ程に自分を認めていた伯爵はどこにもいない。目の前にいるのは冷ややかな目で彼女を見下ろすラザフォード卿だ。その顔には怒りはないが、何も感情を映さない表情こそ何よりも恐ろしい。マグナスのグレーの瞳は何よりも雄弁に彼の中に渦巻く感情を表していた。

「あなたの仕事は妻のドレスを作ることだけだ。少々お喋りが過ぎたようだな。今後我が伯爵家があなたの店に仕事を頼むことはないだろう」

ミセス・マドックはもう何も言えなかった。虚ろな瞳は未だ状況を完全には理解できていないのだろう。ただほんの少し、自慢であった前の奥方について話をしただけなのに。
2人のやり取りを見ていたエミリアははっと我に返りマグナスに懇願するように叫んだ。

「マグナス!奥様のことは私が初めにお聞きしたのです!」
「私の奥方はエミリア、君の筈だが。いくらサリアナに思い入れがあったとしても、今の妻であるエミリアを第一に考えることが出来ない裁縫師に私は邸への出入りを許可すことはない」

マグナスの厳しい言葉にミセス・マドックは項垂れた。店主として客同士を比べるなんてご法度だ。同業者に知られたら軽蔑されるに違いない。
自分の不用意な発言で一番の得意先を失ってしまったことをミセス・マドックは今さらながらに深く反省した。
彼女にとって前ラザフォード卿夫人は大きな自慢であった。伯爵夫人らしい毅然とした女性で、エミリアのように使用人と仲良くしようという考えは持っていなかった。使用人には命令するのであって同じ目線で物を語るものではない。それは貴族として育てられてきた者にとっては至極当然のことだ。
ミセス・マドックはサリアナがグランヴェル家に嫁いできてから裁縫師として仕えていた。サリアナの要求は時として大きすぎるくらいであったが、ミセス・マドックにとって職人として腕が鳴るような毎日だった。
出来たばかりのドレスを着てサリアナが社交界に顔を出せば、そのドレスは忽ち貴婦人たちの口上に乗る。その度にミセス・マドックのプライドが大いに刺激されていったのだ。

過去の栄光を思い出していたミセス・マドックにマグナスは静かに続けた。

「サリアナは確かに素晴らしい女性だったのかもしれない。残念ながら私は殆ど彼女を知らないがね。だが、私はエミリア以上にラザフォード卿夫人に相応しい女性はいないと思っている」

ミセス・マドックは伯爵の近くで不安そうな顔をしているエミリアを見た。サリアナに比べたら容姿も気品も落ちるだろうが、サリアナとは全く別の魅力があるのだろうと思った。サリアナのドレスを作っている時は一度としてマグナスが様子を見に来たことはなかったのだから。
俯きながら謝罪を口にするミセス・マドックにエミリアは何とも言えない気持ちになった。自分の好奇心が彼女から仕事を奪ってしまう結果を呼んだのだ。
咄嗟に何か言おうとマグナスの上着の裾を掴んだが、それよりも早くマグナスはエミリアの肩に手を回した。

「このドレス免じてこれからの仕事に支障をきたさないよう配慮すると約束しよう。必要とあらば推薦状を書いてもいい。エミリアもそれで構わないな」

はっとしたように顔を上げたミセス・マドックを見て、エミリアも力強く頷いた。

「素晴らしいドレスをありがとうございます、ミセス・マドック。これほど美しいものを見たのは初めてです」






ミセス・マドックが執事に連れられ、邸を後にした後エミリアはもう一度自分の姿を見直した。不思議なことに、もう自分を惨めだとは思わなくなっていた。

「マグナス、ありがとうございます」

未だに肩を抱いているマグナスを見つめると「なんのことだ」とぶっきらぼうな言葉が返ってきた。
――私はエミリア以上にラザフォード卿夫人に相応しい女性はいないと思っている。
マグナスのその言葉がどれほどエミリアにとって嬉しかったか、彼はきっと分からないだろう。その嬉しさは胸を温かくさせ、同時に鼓動まで早めた魔法のような威力を持っていた。
きっと心の中でずっと前妻に対する嫉妬が少なからずあったのだろう。全てを持っていた彼女と何も持っていなかった私。そんな風に比べて自分を卑下したところで、私がこの邸で不幸だったことなど一度もなかった。

「私、貴方の妻になれてとても幸せです」

今度はマグナスがはっと息を飲む番だった。まさかエミリアの口からこんな言葉が出るとは思ってもいなかったのだ。心臓は耳障りなほど大きな音を立て、血液を異常ほどに循環させていく。どくどくという音が彼女にも聞こえてしまうのではないか。
自然と肩に置いている指先にも力が入ってしまう。

「エミリア、君は――」

マグナスが全てを言い終わる前に、小さな手がエミリアのドレスの裾を引っ張った。彼女をマグナスと挟むようにした反対側に今まで大人しくナタリーの膝の上に座っていたダニエルがきらきらした目でそこにいたのだ。

「エミー、きれい」

ナタリーが後ろで「ずっと言いたくてうずうずしてたのです」と言うのを耳にしながら、弾かれたようにエミリアはダニエルを抱きしめた。
優しいお陽様の匂いが鼻を掠める。小さな口から紡がれるダニエルなりの精一杯の賛辞を、エミリアは胸いっぱいに感じた。この分では今日が終わるまでめいっぱいダニエルを甘やかしたくなってしまう。
ダニエルは少しずつ甘え方を学んできて、戸惑うような少し恥ずかしいような声でエミリアにねだるのだがそれが彼女には可愛くて仕方ないのだ。
そんなエミリアの心情を感じ取ったのか、マグナスが苦く笑いながら優しくエミリアの髪を撫でた。

「もう着替えてきなさい。ディナー・パーティーの前に汚してしまっては意味がないだろう」

――エミリア、君はなぜそこまで私を掻き乱すようなことばかりを言うのだ?
どうしてその清純な笑みを私に与えてくれるのだ?

口にできなかった呟きは、マグナスの胸の奥にまた一つ鍵をかけて閉まった。







Back Top Naxt

 
inserted by FC2 system