――エミリア・アンダーソン嬢。どうか私の妻になってください。

年頃の娘がそうなように、エミリアにも結婚に対する憧れはあった。どこかの貴公子が自分を見初めて、愛を囁いてくれるのを想像したこともある。
もっとも。両親が亡くなり、家庭教師という職に就いた時にはそんなのは夢物語に過ぎないと諦めてはいたが。
しかしまさにその夢物語が現実になってしまうことを、一体誰が想像したというのだろう。

昨夜あまりの出来事にエミリアはろくに睡眠もとることができなかった。寝ようと思い目を瞑ると、伯爵の言葉が何度も何度も繰り返し頭の中に響くからだ。
あの時テラスにいたのはたったの4人。暫く口も聞けなかった女主人は、さすがに状況を飲みこむのは早かった。
傍にいたレティシアに今聞いたことは誰にも話すなと念を押し、未だ伯爵の婚約者候補たちが残っているホールへマグナスを連れて戻っていった。
もちろんエミリアに鋭い一瞥をくれることを彼女は忘れなかった。
エミリアは何一つ分からないままテラスに取り残され、一体いつどうやって自分が部屋に帰ったのかも曖昧であった。
メリッサは完全に誤解している。きっとエミリアが何らかの方法で伯爵を誘惑したに違いないと思っている。
だが、よくよく考えてほしいのはエミリアのように身寄りも持参金もない娘がどんなに誘惑したところで名家の伯爵様がそう簡単になびくのかということだ。
遊び程度ならともかく、伯爵は結婚相手を探している。エミリアを妻にしても何の得にもならないことを、早々にメリッサは気付いてくれるだろうか。

そんな淡い期待は朝食の席で見事に打ち砕かれた。
メイドから今日は自室で朝食を摂るようにと言われて初めて、メリッサはどうしようもないほどエミリアに怒りを覚えているのだと知った。普段ならエミリアも一緒にと誘いが来るのに。
朝食もそぞろに、エミリアはマグナスの部屋へと足を急がせた。早々に昨日の言葉を撤回してもらい、メリッサにも納得してもらわなくてはいけない。
幸い、婚約者を決めるパーティは今夜もある。その中からラザフォード卿に相応しい奥方を見つけて頂かなくては。
伯爵にしてみればほんの気まぐれだったはずだ。美しく着飾ったご夫人方を見た後で、みすぼらしい服に身を包んだエミリアを見たのが新鮮に感じてしまっただけ。
それかものすごくお酒に酔っていたか。
兎にも角にも一晩を置いた伯爵は冗談だとは言え、エミリアに求婚したことを後悔していることだろう。
一言あれは嘘だと言ってくれれば謝罪などいらない。気のいい女主人と気まずくなりたくはなかったし、これが原因で家庭教師をクビになってしまう方のがよっぽど問題だ。

伯爵の部屋の前に来ると丁度、執事のポールが出てくるところであった。ポールはエミリアを見て一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに軽く頭を下げ自分の仕事へと戻っていった。
今さらだが、伯爵の部屋に入るのは初めてのことだ。そもそも入る理由もないし、エミリアがまともにマグナスと言葉を交わしたのは昨晩が初めてなのだ。
それまではマグナスの姿を見て頭を下げることはあっても、一切マグナスから話しかけてくることはなかったし、さらに言ってしまえばエミリアの存在自体マグナスは関知していなかった。
――まったく貴族の考えはよく分からないけれど、人を巻き込まないで欲しい。
沸々と湧きあがる怒りを抑え、ドアをノックする。

「誰だ」
「伯爵様、エミリア・アンダーソンです。お話があるのですがよろしいでしょうか」
「…入れ」

静かにドアを開けると紅茶のいい香りが辺りを漂っていた。
伯爵は窓際の椅子に座り、一人でチェスを打っていた。戦略でも考えているのだろうか、白と黒の駒がチェス盤の上を交互に動く。
その近くの小さなテーブルの上にはティーセットが置かれ、カップからは温かそうに白い湯気が立ち上っていた。

「何か用だろうか」

エミリアの方は見ずに、マグナスはそう言った。ナイトを動かすか否かで迷っていたからだ。

「昨晩のことなのですけど……」

言いにくそうに切り出され、ああ、とマグナスは興味なさげに返事を返す。きっと式の日取りやドレス、婚約指輪のことなどを聞かれるのだと思った。
実はとっくに女性が喜ぶようなダイヤの指輪は用意していたし、ドレスに関してはマグナスは全くの無知である為に義母に任せることにしている。
――その義母は昨日のマグナスの言動が大層お気に召さなかったらしく、今朝は一言も口を利いていないが。
だが今さらどうしようもない。マグナスはエミリアと結婚することに決めたのだし、彼女以上にダニエルの母親に相応しい女性が今夜のパーティに現れるとも思わなかった。
聞いたところによると、エミリアは両親を亡くしているらしい。持参金などマグナスには不要であるし、義母などこれ以上増えても煩わしいだけだ。いないに越したことはない。

結局ナイトを動かすことに決めた。

「分からないことがあったら、なんでも義母上に聞くといい。式はなるべく早く執り行いたいが…」
「待ってください伯爵!私はあなたと結婚するとは言っていません!!」

半ば悲鳴のように言われた言葉に、マグナスは耳を疑った。

「なに?」

そこで初めてエミリアと視線が合う。襟の詰まったドレスは度重なる洗濯で色が褪せていたし、古めかしいレースに縁取られた袖は幾分エミリアには短いような気がした。
時間がなかったのか、ずっときっちり結わえてあった髪は緩く後ろに流されマグナスはその長さを初めて目にすることとなった。
胸の前で固く握りしめられた両手に、蒼白になった顔。唇は微かに震え、何度か物言いたげに開いてはまた閉じた。

どうやら昨日の言葉は決して冗談ではなかったらしい。エミリアは崩れそうになる足を必死に奮い立たせる。冗談でないのなら更に問題だ。
エミリアは一度大きく息を吸い、自分自身を励ました。部屋を訪ねた時は目も合わせない伯爵の傲慢さに怒りを覚えたが、真っ直ぐ見つめられる居心地の悪さを思えば百万倍マシだった。
仕立てのいい服を厭味なく着こなしている姿はまさに理想の王子様のようだし、この国でも有名な整った顔立ちは確かにメイドや令嬢たちが騒ぐのに充分だろう。
その上、名門と名高い伯爵様だ。その彼に見つめられていると思うだけで恥ずかしくて仕方がない。
マグナスはエミリアの頬にさっと紅が走るのを見て、あまりの初心(うぶ)さに驚いた。マグナスの知る婦人たちは彼と目が合うが否やにっこりと笑うか、誘うような笑みを浮かべるかのどちらかであったからだ。

――いや、それは今問題ではない。マグナスは思った。問題なのは――

「ミス・アンダーソン。聞き間違いでなければ、君は私と結婚する気がないと?」

エミリアははっとしたように顔を上げマグナスを見てから、戸惑ったように頷いた。
マグナスは呆れ果てていた。一体どういうつもりで私の求婚を断るというのだろう。私と結婚すれば欲しいだけのドレスや宝石を買うことができるし、社交界でもラザフォード伯爵夫人と言う名は充分に羨望を集める筈だ。
マグナスが求めているのはダニエルにとって母親という存在になってくれることだけ。しかもダニエルが寄宿学校に入るほんの数年間だ。その後は妻がどういう暮らしをしようと、マグナスは大目に見るつもりでいたのに。
それにこのさき家庭教師を続けても結婚できるとは限らない。そんな中で私の申し出を断るとは、なんと浅はかな女なのだ!
そう怒鳴ってやりたかったが、紳士としてマグナスは口を噤んだ。しかし、微妙な雰囲気を感じ取ったエミリアは恐る恐る切り出した。

「伯爵様、この度のその、申し出は大変光栄に思います。しかし私は家庭教師の身。今なら伯爵様が私に求婚したことは誰も知りません。ですから――」

かつん、とマグナスの手から離れたナイトの駒が固い盤に当たって音を立てる。

マグナスは内心怒り狂っていた。何に、ではなく全てにだ。金色の髪をした家庭教師が結婚を拒むことも、おどおどとその理由を説明することにも。
そして、こんな状況下にあってもマグナスがダニエルの母を娶らねばならないという現実にも。
彼女は何一つ分かってはいない。マグナスだって出来れば二度と結婚はしたくないが、それでもしなくてはならないのだ。
代々続く名門の伯爵家として後継ぎを立派に育てることも義務の一つ。それを途絶えさせる気は更々ない。

「さて、ミス・アンダーソン」


穏やかに彼女の名前を呼んだつもりであったが、マグナスの声は予想以上に低かったらしい。エミリアの肩が小さく跳ねた。

「私の申し出を受けることで君に益はあっても損は生じないと思うが、一体何が不満なのか教えて頂けないだろうか」

エミリアは息を飲んだ。伯爵の口から紡がれた言葉がまるで信じられない。
傲慢にも程がある。彼は私に断る権利すら与えてはくれないのだ。それに神聖な結婚を損得で考える人を夫として見ることなど一生できないだろう。

「もし、それでも君が私と結婚するのが嫌ならば」

マグナスはエミリアの口が開く前に続けた。これは最後通告だ、と心の中で言いながら。

「一時間以内に荷物を纏めてこの屋敷から出て行きなさい」
「えっ…?」

随分冷めてしまった紅茶を飲み、マグナスはゆっくりと立ち上がった。メリッサがイギリス中から買い集めているという中国趣味(シノワズリ)の茶器は美しいがマグナスの趣味ではなかった。
重い雲の隙間からところどころ漏れる光のカーテンは、屋敷の外に広がる芝生を照らしている。

これでもエミリアが結婚を断るのであれば、もう引き留めないつもりであった。しかし同時に断れるわけがないこともマグナスは知っていた。
一度職を失えば、紹介状なしに新しい働き口を探すのは容易ではない。二度と貴族の家庭教師は出来ないだろうし、生活の保障はなくなってしまう。
そんな馬鹿な選択をする人間がどこにいるというのだろう。
少なくともエミリアはそこまで浅慮な考えの持ち主ではないはずだ。

「どうして…そこまでしてまで私を妻に望む理由はなんですか?」

先ほどの勢いはすっかり無くなり、エミリアの声は呟くように小さくなっていた。
結婚を拒んだら働き口を失う。だからと言って、エミリアを愛してもいない男の許へ嫁ぐことを簡単に決めることは出来ない。
そう、伯爵はエミリアのことなど少しも愛してなどいないのだ。ただ何らかの目的があって、エミリアでなくてはならないだけで。
もう選択肢は残されていないに等しい。だったらせめて理由が欲しかった。

「一つ言えることは、私は君と結婚しても愛や恋を求めたりはしないということだ」
「それはどういう意味でしょう…?」
「私が欲しいのは息子の母親であって、妻となった女性と色恋をするつもりはないのだ」

氷のような瞳で、氷のような冷たい声でマグナスは言った。
後ろを振り返りエミリアが呆然としているのを見て、優越感に似た感情が湧きあがる。
もう彼女の答えは決まったも同然だ。


「さて。答えを聞かせて頂けないだろうか…エミリア」

マグナスの言葉にエミリアは絶望的な気持ちを抱えながら頷いた。
それしか残された道はなかったからだ。






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