エミリア・アンダーソンがベッドフォードにあるここ、チェザースハウスに来てもうすぐ一年になる。
両親を亡くしてから一体どうやって生活していこうかと悩んだが、知り合いの牧師が紹介状を書いてくれたおかげで名門と名高いラザフォード伯爵の別邸に勤めることが出来た。
気のいい女主人と、天使のように愛らしい令嬢。ロンドンのような喧騒はなく、ひたすら静かで穏やかな日々であった。
使用人でもない家庭教師という立場は時としてとても居心地が悪いものだが、ここに仕えているメイド達はみなエミリアによくしてくれた。女主人は必要以上の使用人を雇わない為、使用人同士の絆は強く良好な関係を築いていた。
そのことをエミリアはとても幸せに思っていた。持参金も持たない自分は恐らく一生独身のままだろう。だから生徒であるレティシアが立派な淑女(レディ)になるまでは全力を尽くすつもりであった。

いつものように襟が詰まっているモスグリーンのドレスを身に着け、長い金髪を後ろ手に編み込む。ここ一年ほど同じ動作を毎日繰り返している為か、支度をする手際はよく、無駄がない。
童顔の上に身長もあまり高くないエミリアはよく実年齢よりも下に見られるが、解くときに痛いほどきっちりと髪を結えばそれもある程度は隠せることを知っていた。
割り当てられた部屋は日当たりも良く、そこそこの広さがある。尤も、その広さを有効に使えるだけの荷物を持たないエミリアにとっては、些か居心地が悪いようにも思ったが。
クローゼットの半分にも満たない衣服と父の形見である数冊の本、それから母から受け継いだカメオのブローチだけだ。
母が結婚するときに父から貰ったと言うそれは、決して貴族が付けるように繊細なものではないがどこか温かみがあるものだった。
母は時折引き出しの奥からそれを出しては暫く嬉しそうに眺め、そしてエミリアに父との出会いを話す。どこかロマンスめいたその話は聞く度に父親像が変化していくので、父は顔を赤くして母を止めていたが、エミリアにはどのお伽噺よりも素晴らしく思えた。

今でも両親のことを思うと胸が痛む。それは生涯変わらないであろう。

「でも今は両親のことを思い出している時ではないわ」

言い聞かせるように、鏡に映る自分にそう言った。
そう、今やるべきことは自分を雇ってくれた主人に報いることだけだ。



*


廊下に出た瞬間、屋敷全体が何やら浮足立っているのをエミリアは感じた。
人のいい女主人が切り盛りしている為、普段から重苦しい雰囲気はないがそれでも今日はいつも以上だ。
レティシアの誕生日はまだ先だし、大きなパーティの予定も入っていなかった筈だ。
そんなことを考えていると、丁度向こうから馴染みのメイドが走ってくるのが見えた。両手に何やら抱えてとても忙しそうであったので一瞬声をかけるのを躊躇ったが、向こうもエミリアに気付き興奮したように近寄ってきた。

「エミリアさん!おはようございます」
「ええ、おはようございます。それより随分と忙しそうですね」

さりげなくそう切りだせば、メイドのリーザはええ、といくらか頬を紅潮させながら言った。

「つい先ほど旦那さまからお手紙があったのです」
「旦那様…?というと、ラザフォード伯爵様から?」

それ以外旦那様という人物に心当たりはないのだが、エミリアは思わず聞き返していた。
何しろラザフォード伯はエミリアが覚えている限り、一度もチェザースハウスに宛てて手紙を寄こしたことなどなかったのだ。
例え義理ではあっても血の繋がった妹や母は気にならないのかといつも不思議に、そして時には不満にも思っていたのだが、一介の家庭教師が進言する権限などない。
義母であるここの女主人も、妹であるレティシアも大して気にしている様子もないところから上流階級に属する貴族はそういうものなのだと己を納得させていた。

そのラザフォード伯爵がこちらに手紙を寄こしたのは新鮮な驚きであった。

「ええ。なんでも新しい奥さまを探していらっしゃるそうですわ。それでこちらで婚約者を決めるパーティーが出来ないかと」

――新しい奥さま?
楽しそうなリーザとは正反対に、エミリアの頬は完全に引き攣っていた。

ラザフォード伯爵、マグナス・グランヴェルが先妻をお産の際に亡くしたというのはエミリアも知っていた。
その話を初めて聞いた時は伯爵に深く同情した。きっと愛する奥さまを亡くされてとても落ち込んでいらっしゃるだろうと。
お産で命を落とす女性は少なくない。きっとこれから先、どんなに医療が発達したとしても100パーセント安全な出産などないだろう。

ラザフォード伯爵が後妻を娶ることになんら問題はない。
しかし、しかしだ。先妻が亡くなってまだ3年も経っていないだろうと記憶しているエミリアには、到底理解出来るものではなかった。

ふと、始めて伯爵と会った時のことがエミリアの脳裏に浮かんだ。
ここで雇われるにあたり、主人である伯爵に先ずお目通りをということで伯爵領であるラザフォードまで行ったことがあった。
城と見紛うばかりの立派な屋敷を見た途端、エミリアはおもわず帰りたくなった。名門のグランヴェル家に仕えることが出来るのはとても名誉なことだったが、想像していたよりも豪奢な邸は家庭教師になりたてのエミリアを威嚇しているようにも思えたからだ。
それでも何とか物腰の柔らかそうな執事に連れられ、伯爵の書斎へと通された。
あまりに緊張していた為、自分の名前すらきちんと言えたかどうかも疑問だったがあの瞬間のことは今でも鮮明に覚えている。

伯爵は窓辺に立っていた。庭園が一望できるような大きな窓と深紅の生地に金の刺繍が施されている豪華ではあるが落ち着いたカーテン。
一流の仕立てによる服を着たその後姿は、こちらが恥ずかしくなるほど真っ直ぐであった。
執事がエミリアが到着したことを告げると、伯爵はやっとこちらを振り返った。今まで見たことのない美貌にはっと息を飲む。
硬質そうな黒い髪、ギリシア彫刻のように整った容姿、背はすらりと高くそれでいて貧弱な感じは少しもしない。寸分の隙もないほど完璧な服装は、仕立屋が大いに喜んだだろうと思うほど彼に似合っていた。
エミリアはその時おもわず、着ている流行遅れの野暮ったいドレスが今だけ最新の美しいドレスに変わらないかと願った。

「お、お目にかかれて光栄に思います伯爵様。レティシア様の家庭教師となりましたエミリア・アンダーソンと申します」

おずおずと名前を言い、精一杯勉学を教えることを伝えたが伯爵から返事が返ってくることはなかった。
緊張のあまりそんなことを気にする余裕も無かったが、退出する為顔を上げたエミリアは伯爵のあまりに冷たい瞳に足が竦んだ。

グレーの瞳は何の感情も宿さずにエミリアを見下ろしていた。しかしそれも一瞬のことで、すぐに視線は外される。
ピンと張った背中をエミリアは呆然と見ることしかできなかった。ただ、仮にも一番近くで自分の妹を見るであろう家庭教師に、伯爵は何の興味も湧かなかったことだけは分かった。
遂にそのたった一度の機会ですら、伯爵と言葉を交わすことはなかった。

――まるで氷のように冷たいお方なのだわ。
あの時と同じ感情でエミリアはそう思う。そしてまだ見ぬ後妻となる夫人にほんの少しの憐みを感じていた。
それに、3つになるかならないかのご子息様は新しい母親の事を一体どう思うのだろうか。
貴族にとって当たり前だと言われればそれまでだが、エミリアは未だに幼い我が子を乳母に預けて夜会に繰り出す貴夫人たちを理解できずにいた。
自分が子供の頃を思い出すと、両親が不在な時はとても寂しく不安だったからだ。両親を見ていると尚更そう感じる。
あんなに立派なお屋敷に住んで毎日の生活にも困らない人たちなのだろうけれど、もしかしたら家族の愛を知らないのかも知れない。

エミリアがそんなことを考えている間にもリーザのお喋りは止まらなかった。

「きっとイギリス中の未婚女性がここに集まりますわよ」
だとか、
「こうしてはいられないわ!普段使っていない客間を綺麗に掃除しなくては!伯爵様の恥になるようでは困りますから!」
だとか。
次から次へと可愛らしい口から飛び出す言葉に、苦笑いが零れる。メイド頭であるアンナの怒号が屋敷中に響くのも時間の問題だろう。

嵐のように去っていったリーザの後姿を見ながら、恐らく今日の勉強の時間は大分削られるのだろうなと予想する。
何しろ今玄関から入ってくるのは、女主人とレティシア嬢の新しいドレスを作る為の仕立屋だからだ。

エミリアもレティシアの家庭教師としてその素晴らしいパーティーに出席するだろう。
その時自分が着る服は一体何にすればいいのかと、途方に暮れた。
クローゼットに入っているのは紺色と若草色、それと褪せた黄色の、それもとっくに流行など過ぎてしまった型のドレスだからだ。家庭教師としては問題ないが、夜会に出るにはあまりに粗末過ぎる。
伯爵家には恩がある分、来客に笑われるような恰好をしてはいけないのだとは分かっているがそれも難しいだろう。
いっそのことメイド達と同じ服を着るべきか。ふと思いついたものだったが、そっちの方がよっぽどマシなような気がしてきた。

やがて来るであろうその日を思うと、エミリアは胃の辺りがとても重くなるのを感じた。







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